私的 昭和テレビ大全集
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素人のど競べ (1954)

該当番組画像募集


只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版ライト 巻之弐』発売を記念し、
昭和三十年代の番組を特集しております。
その誌面で扱った番組に限らず、今ではあまり振り返られなくなってしまった、
テレビ黄金時代の幕開けを飾る、輝ける昭和30年代を、広く振り返ろうと思います。

この時代の番組実見談を語れる人は、ネット上では非常なる少数派です。
それがため、本当にテレビが熱気を持っていた時代の番組、
出演者に関する記述・記憶が、現今の劣化番組の情報再生産も有り、
どんどん掻き消されていってしまっております。
ぜひ奮って、皆さんのご記憶をお聞かせ下さい。
皆さんが楽しんだご記憶を、歴史の片隅に、ぜひ積み重ねて戴きたいと思います。

コメント欄も含め、全ての文責は当ブログ設置者が請け負っております。
どうか深く考えず、お気楽に書いてみて下さい。
記憶違い、不確かな話、今では表現規制されるような話、
昭和のテレビに関する話であれば、ここは、ほぼなんでも受け付けております。
往時を知る方の、一人でも多くのコメントでのご参加をお待ちしております。
今回は、新人発掘番組の発祥を振り返る、この番組です。





引き続き、前稿『スター道場』の後番組のお話をしましょう。
『スター道場』は、先にも申しましたように、昭和28年11月21日の第13週をもって、
その役割を早々に終えました。
そして翌週の11月28日より始まったのが、後々まで長く続く事になる、
この『素人ジャズのど競べ』で、こちらはのど自慢系の素人発掘番組でした。
日本テレビには、開局早々から新人発掘番組を途絶えさせない歴史が有ったのです。
当時はアメリカ様に阿る意味が有ったのか、「ジャズ」という言葉を使った番組が、
ラジオでもテレビでも非常によく見られました。
もっとも、ロックだのフォークだのと細分化される前ですから、
洋楽ではジャズという楽種が強かったというのは有るでしょう。

この時期、ジャズ方面でののど自慢荒らしとして名高かったのが、フランク永井。
丹下キヨ子司会で人気だったラジオ番組『素人ジャズのど自慢』で、
「マイ・ベイビーズ・カミン・ホーム」を歌い、見事に鐘三つ。
次の出場では、「マイ・ハート・クライス・フォー・ユー」を歌い、再び鐘三つ。
米軍補給部隊のトレーラー運転手をしていたという彼は、
これで自信を得て、朝霞のキャンプ・ドレイクで試験を受け、月100ドルで契約されました。
そして昭和30年、日比谷公会堂で行われたこの番組の第一回決勝大会で、見事ベスト・ワンに。
ビクターの吉田正に見出され、本格的な歌手活動に入ったのでした。
その頃、水原弘や沢たまきとはよくその手の番組で顔を合わせ、
同好の士として親交も有ったという事です。

そして昭和30年、「ラバー・カム・バック・トゥー・ミー」で世に出た彼は、
翌31年9月に出した「場末のペット吹き」で歌謡曲転向したのが成功。
本人はジャズに思い入れが有って泣く泣くだったようですが、
「東京午前三時」「有楽町で逢いましょう」と大ヒットを連発。
以後の活躍は説明不要でしょう。
「有楽町で逢いましょう」は、有楽町そごうが企てた宣伝展開。CMソングでした。
新聞広告は勿論、テレビ番組も制作されていたのです。

昭和29年2月、歌謡曲部門と民謡部門も設け、番組名も『素人のど競べ』となりました。
もしかすると、この時に福助足袋が提供会社となったのかもしれません。
服部良一、レイモンド服部、ティーブ釜萢(かまやつ)の三名だった審査員も、
服部良一、小島正雄、三味線豊吉という顔触れとなりました。
開始当初からの司会は、SKDを退団したばかりの水の江滝子。
彼女も当初は素人扱いで、その司会進行を危ぶまれたものですが、
テレビならではの特質と言いますか、そうした素人臭が却ってウケたのでした。

少しすると、彼女は日活のプロデューサーとしても活躍するようになり、
石原裕次郎を世に出す事になるわけですが、そのように多忙になってきました。
しかも、この番組は昭和31年10月頃、土曜18時半からの放送でしたが、
終了後わずか1時間半の20時半からKRテレビ(TBS)で放送していた、
『素人ジャズのど自慢』でも、丹下キヨ子と隔週で司会を担当していたのでした。
いかな人材難の初期テレビとは言え、流石にこれは捨て置けず、
放送150回となった10月27日に暁テル子への禅譲が行われ、
11月3日からは暁テル子による新司会で進行される事となりました。

彼女はその前にも、既に8月に合格者大会の司会を務めておりまして、
おそらく水面下ではその頃から司会交代が画策されていたのでしょう。
歌も得意な暁テル子ですので、模範で歌ってもらおうという話も有りました。
昭和33年中頃、提供会社はハウスカレーに移行。
この時からでしょうか、司会は三遊亭小金馬となっております。
そしてそのまま、昭和35年8月いっぱいで番組終了となりました。
ハウスは後番組に、流行のようになっていた記者ものの子供向け版、
『少年事件記者』を始めるのですが、そちらは知っている人も少なそうですね。
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コメント
この記事へ寄せられたコメント
昭和35年8月終了・・・とのことですが、当時のテレビ欄等の資料によると9月以降は火曜13時台に移動して37年の新春まで細々と続いていたようです。

36年4月の「ザ・テレビ欄0」の火曜日の欄にも日本テレビの「ひる」の項目の中に”1.15 素人のど自慢 三遊亭小金馬”という記述があります。
2014/06/10(火) 13:05:27 | URL | (ハンドル未記入)
ああ、本当だ。
昭和37年10月に第二期が始まってますね。
ただ、放送回数は継続となっていないので、別番組という認識だったようです。
そちらは、すぐに終わった感じですね。

テレビ欄0の方は確認できません。
何かが違っているような。
2014/06/11(水) 02:18:14 | URL | ごいんきょ
訂正。
あ、36年4月ではなく10月の分に載ってますね(汗)。訂正いたします・・・・。

ただ、36年4月の項目を調べてみる限りだと・・・どうもこの時期はまだ火曜日ではなくほかの曜日で放送していたみたいですが、その放送曜日がちょっと特定できないんですよねぇ・・・。36年4月第2週の日本テレビはほぼ毎日日中に巨人戦を編成していたみたいで、日中の定時番組(特に13時〜17時台)が随分変更になったりしてるみたいですし・・・。
2014/06/18(水) 06:23:52 | URL | (ハンドル未記入)
ああ、はいはい。
でも、日テレ社史では通算回数になってないんですよね。
内部的には別番組として勘定していたようですから、第二期という事になりますね。
2014/06/20(金) 22:40:51 | URL | ごいんきょ
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