私的 昭和テレビ大全集
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プロ・レスリング中継 (1958)

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只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版ライト 巻之弐』発売を記念し、
昭和三十年代の番組を特集しております。
その誌面で扱った番組に限らず、今ではあまり振り返られなくなってしまった、
テレビ黄金時代の幕開けを飾る、輝ける昭和30年代を、広く振り返ろうと思います。

この時代の番組実見談を語れる人は、ネット上では非常なる少数派です。
それがため、本当にテレビが熱気を持っていた時代の番組、
出演者に関する記述・記憶が、現今の劣化番組の情報再生産も有り、
どんどん掻き消されていってしまっております。
ぜひ奮って、皆さんのご記憶をお聞かせ下さい。
皆さんが楽しんだご記憶を、歴史の片隅に、ぜひ積み重ねて戴きたいと思います。

コメント欄も含め、全ての文責は当ブログ設置者が請け負っております。
どうか深く考えず、お気楽に書いてみて下さい。
記憶違い、不確かな話、今では表現規制されるような話、
昭和のテレビに関する話であれば、ここは、ほぼなんでも受け付けております。
往時を知る方の、一人でも多くのコメントでのご参加をお待ちしております。
今回は、プロレスの日本普及期を振り返る、この番組です。





プロ・レスリング誕生という記事が紙面を踊ったのは、昭和24年11月の事。
社会党代議士となった事もあった庄司彦男を中心に団体が生まれたのです。
この庄司、大正時代に来日したレスラーと靖国神社で対決した柔道家。
その後レスリングと関わるようになったのでしょうが、詳しい事はよくわかりません。
ただ、戦後に日本人が関わる最初のプロレス記事は、この記事かと思います。
但し、この時の募集に誰が応募し、どのような経緯となったかは詳らかではありません。
おそらく具体的な形とはならなかったのでしょう。

昭和26年7月、家庭の事情で手術を受けられない子供達を救うという、
トリー・オアシス・シュライナーズ・クラブという所が、
日本の少年達にも救いの手を差し伸べるという事になり、
アメリカからプロレスラーを招いて募金を行いました。
この時に、元力士という名目で日本側から力道山が参加。
11月14日の試合では、ボビー・ブランズと引き分けて善戦しました。
この時、柔道六段の遠藤幸吉も参加し、カナダのオヴィラ・アセリンと引き分けました。

力道山はこの後も数試合を行い、年末には、相撲には戻らないと宣言。
アメリカに渡ってプロレスをやると決意を述べたのでした。
そして昭和28年3月6日、アメリカでの三百余試合でわずか5敗という実績を引っ提げ、
揚揚と日本に帰ってきたのでありました。
時に、NHKがテレビ本放送を開始してまだ一月ほど。歴史の綾なす奇妙な意思は、
プロレスとテレビという新たな文化の邂逅を待ち倦ねていたかのようです。
7月30日、日本プロレスリング協会結成披露。

昭和29年2月、日本プロレスリング協会が、時の世界タッグチャンピオンである
シャープ兄弟を招聘し、東京と大阪では世界選手権試合を行うと発表しました。
昭和27年には、既に白井義男がボクシングで日本人初の世界チャンピオンになり、
日本国中が湧いておりましたので、このプロレス世界タイトルマッチも大いに注目されました。
そして19日(金)から21日(日)の3日間、蔵前国技館で興行が行われ、
最後の21日に、初のプロレス世界選手権試合が、シャープ兄弟と
力道山・木村政彦組との間で行われる事となったのです。
この時の出場者は、その他にボビー・ブランズという超一流選手も来ており、
日本側は山口利雄、遠藤幸吉ほか、レフリーにオキ・シキナといった面々でした。

初日の19日、ボビー・ブランズ対山口利雄、シャープ兄弟対力道山・木村組の試合を、
伊集院浩解説で日本テレビが19時半より21時まで中継。
同日、NHKも20時から、力道組の試合のみを中継したのでした。
これがテレビ本放送に於ける最初のプロレス中継でありました。
続く20日は、日本テレビのみが中継。そして最終21日の選手権試合は、
当然NHK、日本テレビ共に15時からの中継を実施。
試合としては、19日は力道山の活躍でシャープ兄弟に勝利し、
20日は力道山が二本取って、ベン・シャープとのシングル戦に勝利。
タイトル戦はさすがに勝てなかったものの引き分けと、
アメリカのチャンピオンに全く負けなかった力道山への英雄視が、ここに始まりました。

昭和31年4月26日(木)、世界タッグ選手権試合がまたも挙行されました。
時の選手権者は、前回と同じベンとマイクのシャープ兄弟。
対する力道山は、今回は遠藤幸吉を相棒にしての挑戦。
もう一試合も、欧州選手権者ラッキー・シモノヴィッチに挑む、
元横綱レスラーの東富士という好試合。
この、現在のサッカーワールドカップをも上回ろうかという注目度の一戦は、
テレビ各局が相譲らず、なんと、NHK、日本テレビ、KR(TBS)テレビという、
当時の関東全テレビ局が同時に中継するという事態となりました。

ま、今でもラジオなどは読売の野球中継などでこういう阿呆面を相変わらず晒してますけど、
テレビでは、この時代でも少々異様な構図ではありました。
しかしそれも、プロレス世界戦という圧倒的な訴求力の故でした。
敗戦からまだ十年そこそこ。
力道山がアメリカのチャンピオンをねじ伏せてくれる画は、
多くの日本人にとって溜飲の下がる構図だったわけです。
とまあ、事細かく描写していくと一大日本プロレス史が数冊出来上がってしまうので(笑)、
ここらからかなり端折りますと、こうして日本人の敗戦コンプレックスを解消してくれた
プロレスという興業は定着し、テレビ番組としての人気も凄まじいものであった事は、
戦後を扱う歴史映像などでよく使われるので、皆さんよくご存知でしょう。
でありながら何故か、定時番組はしばらく作られなかったのであります。

この理由の推察も取り敢えず保留したいと思いますが、
それがようやく実現するのは昭和33年9月5日の事。
前週から始まった『ディズニーランド』との隔週交代放送という形で、
通称「ダイヤモンドアワー」と称される金曜夜8時からの1時間放送される事になります。
スリーダイヤモンドマークの三菱電機提供なので、「ダイヤモンド・アワー」。
開始音楽は、勿の論で、日本テレビスポーツテーマでした。
♪ ちゃーんかちゃーんか…  前に一回やったからもういいか(笑)。
当然ですが、『ディズニーランド』の週はこの音楽で始まっていませんので(笑)。
この間に力道山と死闘を繰り広げた忘れじのレスラーには、
プリモ・カルネラやジェス・オルテガなどがおります。

日本テレビに定時枠が出来る直前の7月、力道山がアメリカ遠征に出発。
そして日本テレビの本放送開始5周年である8月28日の正にその日、
力道山が27日にルー・テーズを破り、世界選手権者となったとの外伝が入ったのです。
しかし翌日になると、これは選手権試合ではなかったという外電が入るも、
日本プロレス側はあくまでも選手権試合だったと強弁。
31日に帰国した力道山は、「自分は世界チャンピオンとなった事は事実である」
と記者会見で述べ、よくわからない事態となりました。
そして力道山はドサクサ紛れと言いますか(笑)、
「世界選手権者」としてドン・レオ・ジョナサンと選手権試合を挙行。

これらも今の眼で見たら、非常に解り易い構図なのですが。
日本テレビ開局5周年記念番組として始まった『ディズニーランド』との
抱き合わせ枠である『ダイヤモンドアワー』という定時番組を得たにあたり、
興業の核となるタイトルマッチを定期的に行えるようにしたかったのでしょう。
力道山は既に、木村政彦との遺恨試合を曰く付きで制して日本選手権者ではありましたし、
アジアだの太平洋だののタイトルマッチは、おそらく勝手にやってましたが(笑)、
「世界」の強豪を見下す立場での地位が、定時番組保持に必要と判断されたのでしょう。
そこで時の世界選手権者ルー・テーズに勝たせ、箔を付けて、
その上で適当なベルトを認定して貰ったという事でしょうね。

それにつけても東洋人の力道山が、アメリカの地でルー・テーズに勝ったなら、
それはやはり凄い事ではあったわけです。
そして、この時に力道山が制作したとしか思えないベルトは(笑)、
本場NWAの認定を得て、インターナショナル選手権というタイトルの象徴となりました。
先ほど保留しておいた考察に早くも行き当たった気がしますが(笑)、
結局、平の試合を毎週やっても飽きられるという危惧が有ったのでしょうね。
しかし力道山がベルトを保持し、そのタイトルを外人に奪われるかもという
タイトルマッチを折に触れて放送できれば、定時枠でやって行けると計算したのでしょう。
その辺は、本場アメリカの形態も研究しての事だったと思われます。

昭和34年4月17日、東京新橋の西口ステージにて、
カラーテレビの普及にいよいよ乗り出した日本テレビがカラー街頭テレビを設置し、
プロレスのカラー実況中継を行ったのでした。
時あたかも時の皇太子殿下ご成婚の直後。
力道山がリング上からお二人への祝辞を述べて始まりました。
戦後日本の開花を何者かの意思が誘(いざな)うように、
全ての歯車がアメリカ文化を中心として、順調に回り出します。
前年には長嶋茂雄が読売球団で大活躍し、引き続き王貞治が加入して注目されておりました。
キリスト教の美智子妃(当時)、野球、そしてディズニーランドとプロレス。
テレビはこれらアメリカ文化の象徴と不可思議な程の共時性を発揮し、日本の欧米化を促進しました。

昭和34年には、力道山一世一代の名興業、ワールド大リーグ戦が始まります。
この頃、酒乱の気も有ったのか、酒に酔っての暴行事件も幾つか起こしました。
しかし興行的には、インターナショナル選手権とワールド大リーグ戦という
二大安定興業を得て、プロレス人気は高値安定が続きました。
けれども、この頃まではかろうじて大試合の結果だけは報道していた、
非常に近い間柄の読売新聞ですら、ショー的要素が強く他のスポーツと一緒に出来ないとして、
一般紙での報道はされなくなるなど、異端視する人々も出てきてはおりました。

そこに危機感を持ったであろう力道山は、彼の思う正しいプロレス像を子供達に伝えるべく、
既述『チャンピオン太』という他局のドラマにまで出張ったりしました。
『チャンピオン太』放送の半年ほど前には、銀髪鬼フレッド・ブラッシーが来日。
この噛み付き魔と力道山との凄惨な試合は流血表現を伴い、
老人が卒倒したり、あまつさえショック死とまで報道される事態となり、
プロレスを取り巻く状況がやや悪化気味だったというのも有ります。
とは言え、プロレスの視聴率は1位を堅持するという、超長期安定人気番組でした。

それもこれも、稀代の英雄・力道山あればこそ。
しかし昭和38年12月8日、赤坂ラテンクォーターで、酒の上の口論から暴力団員に刺され、
その傷が元で15日に、日本プロレスの祖は亡くなったのでした。
この時、当時のラテンクォーターで司会をしていたEHエリックも舞台上におり、
当時の状況をつぶさに書き残しております。
力道山亡き後の日本プロレスは、迷走の一途。
暴力団との繋がりも一層に深まり、不祥事も次々と起きました。

空白期とも言える約二年もの期間を経て、日本プロレスはエースにジャイアント馬場を抜擢。
馬場は力道山由来の日本プロレス中核タイトルであるインターナショナル選手権を獲得し、
以後、この選手権試合にアメリカの超々一流レスラーとぶつけるという路線で、
ジャイアント馬場の箔付けに成功、第二期とも言える黄金期となります。
ワタクシが記憶しているのはこの辺からで、力道山の記憶は有りません。
馬場のインターナショナル選手権は燃えましたねー。
クラッシャー・リソワスキー、ディック・ザ・ブルーザー、ボボ・ブラジル、
鉄の爪フリッツ・フォン・エリック、フレッド・ブラッシー、ザ・デストロイヤー等々、等々、
正しくアメリカの超一流レスラーが次から次と来襲。

当時のレスラーは真剣に「プロレス」をやっていたので、本当に怖かった。
ブラッシーはヤスリで歯を磨くし(笑)、エリックの胃袋掴みは学校で流行るし(笑)、
ブルーザーだったかな、マイクを食べちゃうしね(笑)。
ブラジルのココ・パットもデストロイヤーの4の字固めも学校で流行り、
とにかく痛かったし(笑)、痛い目に遭わせたし(笑)。
我が父も筋金入りのプロレス狂で(笑)、特に流血試合をこよなく愛しました(笑)。
ワタクシが新日本プロレスにハマっている頃は、あまり熱中していないように見えましたが、
既述『異種格闘技戦』レフトフック・デイトン戦では狂喜しており、
「猪木の試合にしては面白かった」と大満足の様子でした。要するに、
彼にとってストロングスタイルは退屈で、流血試合こそがプロレスの華だったわけです(笑)。

ワタクシはハンセン在籍時の新日をこよなく愛しておりまして、
「猪木の試合を見られて良かった~」とある試合の後に漏らしたら、
「俺たちは力道山の試合を見られて良かったよ」と得意がっておりました。
選手が頭突きだのチョップだのをすると、それに合わせて頭を動かし、
体全体でプロレスを見ていたあの男(笑)。
母親に拠れば、それは力道山時代の昔からだったと言います(笑)。
ですからワタクシも、乳児の頃からプロレスを観て育っているのです(笑)。
必殺の空手チョップに合わせて、あの男が頭を思い切り振って見ていたのが目に浮かぶようです。
こう書くともうこの世にいないようですが、まだ非常に達者ですのでご心配なく(笑)。
ただ、彼の楽しみの一つであったプロレスの方は、テレビから無くなってしまいましたが…。
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コメント
この記事へ寄せられたコメント
三菱ダイヤモンドアワー枠
先日のファミ劇、太陽にほえろ(ジーパン編)でジーパン刑事がヤクザの事務所を急襲するシーンがありました。坂口征二VS外国人のポスターが事務所に小道具で掲示されてました。猪木追放、馬場独立後坂口選手がメインイベンターを務めていた時ですかね。当時は日テレは日本プロレスをどう考えていたんでしょうか?苦肉の策で始めた太陽にほえろが大ヒットしていて余裕が出たんでしょうか?
2014/07/19(土) 11:38:05 | URL | とらお
2週に1度のお楽しみ
プロレスとディズニーを隔週でやっていたなんて、今の人から見れば実に不思議な番組構成でしょう。
父親がプロレス、子供がディズニーと、各世代への配慮だったのでしょうか?
子供にとってはプロレスも刺激的という点で興味深いものでした。でも、日本人=正義、外国人=悪、みたいな図式は高度経済成長の先に控える国際化に向けてはよくなかったかもしれません(笑)。
試合の合間での、三菱掃除機・風神によるリングの掃除はお約束。でも昨日気が付いたのですが、三菱の掃除機は今も風神なのですね。家電としては息の長い愛称ですね~。
2014/07/20(日) 17:22:30 | URL | 元朗
私が覚えていること
家族でプロレスを観て、一番キャーキャー言っていたのは母だったような気がします。母は豊登さんが好きと言ってました。腕を交差させて脇で音を出すのを子供たちは真似して大人を笑わせました。

日本チームはロープを掴んできちんとタッチしてから選手が交代するのに、憎っくき(笑)外人チームはタッチもしないで交代したり、二人で一緒に攻撃したり、ズルいことをするのです。
オキ・シキナさんが後ろを向いているときに(笑)。
 
外人チームは凶器も持っていて、やはりオキ・シキナさんが見ていない時にこっそり使って振り向くとパンツに隠したり。
テレビの前で「隠してるよー」と叫んでもオキ・シキナさんには届きません。
特にブラッシーは本当に恐怖でした。
「プラッシー」を知ったとき、何故ジュースに怖い名前をつけるのかと思ったくらいです。

散々痛めつけられた日本チームですが、最後に必ず登場する力道山!(敬称略)
空手チョップが本当にかっこよかったです。

その頃、渋谷のバスターミナルから夜空に輝くリキパレスを見上げた記憶もあります。

ある時、母が子供にプロレスを見せるのは良くないと言いだし、あんなに盛り上がっていた我が家のプロレス観戦も下火になりました。
2014/07/22(火) 00:16:31 | URL | モデラート
● とらおさん
坂口さんがエースの時期なんて有ったんですかね。
仮に有ったとしても、物凄く短い時期だと思いますけど。
たまたまそんな時期だったのかな。
日テレとしては、おそらく腐敗した幹部連中にも愛想が尽きていたでしょうし、
NETと両建てで金を取ろうとしたりするので、
馬場さんを擁立して全日本プロレスを作り、日プロは切るんですよね。
この構図は、全日本からノアへの移動でも似た感じになりました。


● 元朗さん
何故ディズニーとプロレスを交互に放送したのかは、非常に興味深い問題です。
今までこれについて追求された事は無いんじゃないかな。
有り得る線としては、力道山がプロレスを飽きられる事を怖れていたのかなと。
なかなか定期放送が実現されませんでしたしね。
また、昔はテレビで放送すると実地営業の客足が鈍るのではという懸念も有ったでしょう。
また、『ディズニーランド』は子供向けの一時間番組という事で、
日本で枠を確保するのは難しい判断だったかと思います。
おそらくプロレスとの交互放送でなければ、あれだけの人気にはなっていなかったかと。

外人が悪役だった事ですが、悪影響は無いと思いますよ。
基本的に日本人は西欧コンプレックスが有りますので。
悪の朝鮮人とか謎の中国人とかで悪役を作っていたら問題だったでしょうが(笑)。
そういうのは向こうさんのお得意ですがね。
風神は現役なのですか。いいですね、和名。


● モデラートさん
昭和30年代特集では孤軍奮闘してくれている感の有るモデラートさんですが、
まさかこの番組にまで出張って下さるとは(笑)。
カッポンカッポン脇を鳴らす豊登さんも人気でした。
あの音、真似できました?(笑)

そう。日本人はあくまで正当に。外人悪役は卑怯にね。
何故か栓抜きが凶器の定番で、素早くパンツの中に隠しては、
「ノーノーノー」と両手を振って持ってないアピールするのも、
我々のプロレスごっこで真似されていた部分です(笑)。

ブラッシーさんとか、本当に怖かったですからね。
ああして真剣にプロレスやっている人たちが多かったから楽しかったですよ。
今は誰も彼もがヒーローになりたがって、まったく独自性が無くて。

なんだろう。凶暴性が増すという判断だったのですかね。
弟さんへの悪影響を考えたのかもしれませんね。
2014/07/27(日) 06:55:32 | URL | ごいんきょ
新年おめでとうございます
新年おめでとうございます。
 年末年始で、思い出すプロレスといえば、今でも語り草になっている1969年の猪木VSドリーファン戦ですね。これ、調べたら12月のはじめにやってるんですけど、なぜかテレビ放送は12月31日にやったんですよ、確か。金曜8時からとは別に、この頃月曜9時から、猪木の試合中心でテレビ放送してたんですが、そっちだったのかなあ?
 この年、我が家ではカラーテレビが購入され、お古の白黒テレビは私の部屋へと持ち込まれていたんです。でもって、私は紅白も見ないで、これを白黒テレビで見たんですが、60分フルタイムドローという大変な試合になったんですね。お互いのもち技はもちろん、それに加え、ドリーがダブルアームスープレックス(試合で使ったのはこれが最初のはず)を出すわ、猪木が四の字出すわ、もう凄いことになったんですよ。後にも先にもあの試合を超える試合はないですね。
2015/01/02(金) 02:20:34 | URL | みのモンタナ
お~。
あの伝説の猪木・ファンクJr.戦をテレビ放送でご覧とは。
んま、本当に「伝説」にすべき一戦でしたけどね(笑)。
ワタクシは当時見ていないので、あとでソフトで見たのですけど、
やはりその時に見なければ駄目だなと思いました。

お。
やはりカラー購入時に白黒が下がってきましたか。
この辺の事は、あまりこれまで触れられてきておりませんが、
カラーテレビ普及期というのは、同時に、
個別視聴の黎明期でもあるわけなんですよね。
2015/01/03(土) 09:25:40 | URL | ごいんきょ
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