私的 昭和テレビ大全集
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雲をつかむ男 (1964)

該当番組画像募集


只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版ライト 巻之弐』発売を記念し、
昭和三十年代の番組を特集しております。
その誌面で扱った番組に限らず、今ではあまり振り返られなくなってしまった、
テレビ黄金時代の幕開けを飾る、輝ける昭和30年代を、広く振り返ろうと思います。

この時代の番組実見談を語れる人は、ネット上では非常なる少数派です。
それがため、本当にテレビが熱気を持っていた時代の番組、
出演者に関する記述・記憶が、現今の劣化番組の情報再生産も有り、
どんどん掻き消されていってしまっております。
ぜひ奮って、皆さんのご記憶をお聞かせ下さい。
皆さんが楽しんだご記憶を、歴史の片隅に、ぜひ積み重ねて戴きたいと思います。

コメント欄も含め、全ての文責は当ブログ設置者が請け負っております。
どうか深く考えず、お気楽に書いてみて下さい。
記憶違い、不確かな話、今では表現規制されるような話、
昭和のテレビに関する話であれば、ここは、ほぼなんでも受け付けております。
往時を知る方の、一人でも多くのコメントでのご参加をお待ちしております。
今回はパチンコの歴史を振り返る、この番組です。






昭和30年代から40年代中頃まで、テレビドラマに立志伝が多かった。
それは完全なる創作の場合より、実在の人物を描いたものや投影したものが多かった。
すなわち敗戦後の更地から駆け上がる事が出来た人材が、
多く輩出された後の時代だったという事も出来るかと思います。
良くも悪しくも成熟したこの日本では、なかなか見る事が難しくなったドラマと言えましょう。
この『雲をつかむ男』も、言ってみれば立志伝。
投影された人物がいるのかどうかは知りませんが、おそらくこれは創作だと思います。

その副題も、「パチンコ王」。
おそらくTVドラマ史上唯一の、パチンコを正面から取り扱ったものだと思います。
主人公の庭子金太郎は、パチンコを企業化し、百人を超える従業員を従えるパチンコ王。
そんな男の半生を、終戦直前から振り返るもので、長門勇が演じておりました。
そんな彼は、あくまでドラマ中での話と断ってはいたものの、
玉が出る時にチンジャラ音がするようにも発明。
この話からすると、パチンコの父とも呼ぶべき正村竹一を描いたとも思えますが、
その辺は詳らかではありません。
昭和39年6月5日から11月27日まで、フジ・関西テレビ系で放送されました。



で、以後はパチンコの話など一つも聞きたくないという人は読まなくて結構です。
いつかは語り残そうと思っていたワタクシなりのパチンコ備忘録を、
この機会に書いておこうというだけですので(笑)。
戦後の貧しい中、昭和22年には数少ない娯楽としてパチンコが頭角を現し始めております。
さすがにその頃は知りませんが(笑)。
昭和25年にもなると早くも社会問題となり始めます。
最初の頃は子供の遊びだった物が、景品を付けるようになり、
その景品に煙草が出されるようになると、大人達は子供からこれを取り上げた(笑)。

その頃、パチンコ屋で入手できた煙草が、「光」。
そして、その光を買い上げる業者も出てきて、パチンコで生活する者が出始めました。
一般人にも持て囃され、パチンコ屋は見る見る増える一方。
そんな頃、大蔵大臣当時の池田勇人がそんな状況に苦言を呈したところ、
時の新聞社は紙面のありとあらゆる所を使って池田を腐す事を書き、
あからさまなパチンコ擁護までは行かない煙幕を張っておりました。
いま思えば、その当時に撲滅しておけば良かったのでしょうが。

ただ、その頃のパチンコというのは可愛いもので、
大人が小遣い銭で軽く遊んで、上手く行けば煙草を数箱手にできるという感じ。
それも有って、問題視する人は多かったのですが、見過ごされても来ました。
しばらくすると機関銃式とか露骨に射幸性の高い機械が出てきて、
それは流石に規制され、また大人しい仕様のパチンコがしばらく続きます。
そんなパチンコ台の中でも最も画期的な発明だったのが、正村式ゲージ。
スタンダード6穴とも呼ばれた、その後のパチンコ台の基本的な姿でした。

ワタクシがパチンコを知ったのは、もちろん幼少時。
その当時はスーパーのゲームコーナーにパチンコ台が有りましたし、
縁日でも景品を付けてやっておりました。
けれども、その奥深い世界を覗かせたのが、少年マガジン連載の「釘師サブやん」。
今では絶滅状態であろう釘師という職業の主人公が、
美玉一心という超スゴ腕のパチプロらを相手に勝負を繰り広げるもの。
子供はパチンコのようなものが単純に好きですし、
ワタクシは漫画も好きでしたから、そこからパチンコへの興味が深くなるのですね。

それ以前にも数回は父親に連れられていたかと思いますが、
そのうちに自分でも通い出すようになってしまうのです。
しかも、自分の中ではまったく不良という認識は無く、単純に娯楽として。
従ってワタクシは、同世代が知らないパチンコの歴史も見てきているのです。
まっっったく自慢にはなりませんがね(笑)。
勿論ワタクシが始めた当時は手打ち。
穴に一発一発玉を入れて、非常に単純な作りのハンドルで打ち出す物でした。
子供でしたから一発入れては打ち、一発入れては打ち。
台もいっぱい空いていたし、誰にも迷惑は掛からず、非常にのんびりしてました。

かなり腕利きの人は左手に数十発の玉を握り、親指を駆使して次から次と、
それこそ機関銃のように連射しておりましたが、そんなのは序の口。
ワタクシは実見しておりませんが、本当のプロともなると9分9厘狙った位置に打ち出し、
怒濤のように袖やブッコミに流れ込んでいたと言います。
ここで話が前後しますが、正村式について話しましょう。
天に四本の釘を置き、左右にストレートのハカマ状の部分を配した正村式。
パチンコの普及は正村式が有ったればこそというのは衆目の一致する所ですが、
ワタクシが思うに、これで天穴を狙い易くなったのが非常に大きいと思います。
日本人好みの、一対一の決闘のような狙い方が台に対して出来るようになったのです。

ところが正村式の凄い所は、見た目に狙い易いけれども、
釘師や店側の調整ヶ所も考えてあって、釘の開け閉めが可能だったのですね。
簡単な部分を解説すれば、袖のストレートに有る二本の命釘、
これがただ開いているだけでは駄目で、袖そのものとの平行性が鍵となるのですが、
袖の途中の釘をいじったりして、命クギは開いているように見えるけれども
何故かそこで弾かれるという調整ができたわけです。
天にしても同じで、天釘のど真ん中が開いていると一見入りやすそうですが、
そんな真上から天穴に入れるのは非常に至難である道理です。
実は天四本の一番左の外側、ブッコミという所からなら放物線で狙え、
そこが開いているかどうかが非常に重要な攻略点だったのです。

とまあ、かように画期的だった正村式を発明したのが、先に少し名前だけだした正村竹一。
彼は特許を取らなかったために、この方式が燎原の炎の如くに広まり、
ワタクシが始めた頃にはこの形でない台は見当たりませんでした。
件の漫画『釘師サブやん』の中では茜正村という釘師の神様が登場し、
彼が発明したから正村ゲージだとされておりました。
ワタクシは漫画だからまったく信用してませんでしたが、
後に正村ゲージの名前を知り、え?茜正村って本当にいたの?と思いましたね(笑)。
すると盤球極意伝とか穴破経とかも有るのか?とか思ったり(笑)。

いま思い返しても、手打ちの頃は本当にノンビリしてました。
女性はほとんどおらず、いても蓮っ葉なおばさんか水商売風。
お父さんがのんびり打ちに来ている風情で、たまにワタクシのような子供を連れて。
たまーに、本当にたまーに勝っても、景品に交換するお父さんが多かった。
我が親父もたまにやっておりましたが、よくチョコレートだの取ってきましたね。
当時のパチンコ屋特有の、無印の茶色い紙袋で(笑)。
ワタクシはしばらく交換できるほどの玉は出せませんでしたが、
初めて交換した時は、山口百恵の「冬の色」とあとはお菓子を取ったかと思います。

そうこうするうちに台皿ができ、わざわざ手で入れなくとも
ハンドルで連発できるようになりました。
いま思えば半自動とも呼ぶべき台でしたが、その頃はそれでも便利だったのです。
それからまた数年、今度はただハンドルを捻れば自動的に連発する、
電動ハンドルがとうとう登場してきたのです。
これには大いなる衝撃を受けました。
一発一発、自分の思った通りに打つ事がこれで不可能になったのです。
のんびりしたパチンコの時代に直接引導を渡したのが、電動ハンドルでした。

その後もちょくちょく行っては交換し、母親に五木ひろしの「幸せさがして」かな、
取ってきたりもしておりました。
その頃には電役物というのが出てきておりまして、当時はそんな名前は知りませんが、
ボクシングというのがわりと好きでね。
左右にボクサーがひょこひょこ動いて、上手くそこに入れると動作開始。
入る位置さえ良ければかなり長いあいだ開閉動作が続くというものでした。
この頃までは、パチンコものんびりしたもので、素人には打ち止めはまず不可能。
閉店近くになって、打ち止めされていた台を解放されるのを抽選で当てるくらいしか
ワタクシ如きには憧れの打ち止め札を掲げる事は狙えませんでした。

そんな昭和55年の或る新装開店。
スロットマシンのように数字が3つ揃えば当たりという感じの台が入ったようでした。
ワタクシはパチンコの玉や役物の動きが好きでしたし、
単純でつまらなそうだし、当たりそうもないしで、そんな物は無視して
これまで通りの台に直行しました。誰も来ないので選び放題でした。
やった。新装開店で好きな台を打てる。と喜んだのも束の間、
なんと、ワタクシの後ろにいた大多数の大人たちは、
正に「殺到」という言葉通りに、スロット風の新台へと群がっていきました。
いま思えば、正しく「フィーバー」(笑)。

それからけっこう長い事、嵐のようなフィーバー旋風が吹き荒れました。
777が揃えば、あの、夢の打ち止めまで一直線と知り、
ワタクシはあの日に台を抑えなかった事を激しく後悔しました。
新装でもない時に初代フィーバーを当てるのは凄まじく困難で、
ワタクシ自身を含め、周辺では誰も当てられませんでした。
一人だけ777は揃ったものの、上のデジタルが他の数字だったと悔しがりました(笑)。
その後、三共以外の他社からも競合品が出てきて、
また、出玉規制が入って最高16ラウンドまでとなった事で当たり易くなり、
そうなってからは勿論、何度も当たっておりますけれども。

次に、ゼロタイガーが出てきました。
これも今にまで残る羽根物の元祖で、やはり初代は打ち止めまで一直線だったと思います。
が、こちらもワタクシには縁が無く、いつも途中でパンクしては悔しがってました。
このフィーバー機と羽根物という続け様の発明が、正村式に次ぐもので、
今にまでパチンコ台と言えば、このどちらかの亜流でしかありません。
途中には一発台と呼ばれるものもブームになり、中では3つ穴クルーンの
スーパーコンビ、これも三共の名作ですが、など忘れ難いものが有ります。
けれどもやはり、今になって思うのは、フィーバー以後のパチンコは全て邪道だなと。
パチンコは自分の手で一発一発打って、力加減でブッコミを狙って、
その結果として小使いを摩ったり、煙草やチョコレートを取ったりで良かった。

まして今ではコンピューター制御も行き着く所まで行き着き、
打っていても全てが店側の思惑通りの結果としかならない有様。
流石に往時を知っているワタクシには耐えがたいものが有り、
完全にパチンコとの付き合いは潰えました。
『釘師サブやん』で、釘師究極の釘術「玉おきのハンマー」というのを
茜正村が編み出しましたが、自らそれを封印しております。
それは、玉の流れ方が固定されてしまう、パチンコの魅力を奪う釘だったからです。
コンピューター制御を実感した時、ワタクシは現代の玉おきのハンマーを知り、
パチンコに感じていた魅力を根こそぎ奪われてしまったのでした。
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コメント
この記事へ寄せられたコメント
私も年齢的にそのドラマは未見ですが、あれば是非見てみたいものです。
モデルがいたのは事実だと聞いていますよ。今その会社はないようですが。
正村竹一さんの名前が出ましたが、当時、業界に”三村”というお三方がいたらしいです。正村さん、〇村さん、〇村さんは有名だったそうです。
2016/07/04(月) 16:12:50 | URL | 通りすがり
おや、業界の方ですか。
他の二村さんはどのような人なんでしょうね。
2016/07/17(日) 20:31:25 | URL | ごいんきょ
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