私的 昭和テレビ大全集
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若さで行こう (1962)

該当番組画像募集


只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版ライト 巻之弐』発売を記念し、
昭和三十年代の番組を特集しております。
その誌面で扱った番組に限らず、今ではあまり振り返られなくなってしまった、
テレビ黄金時代の幕開けを飾る、輝ける昭和30年代を、広く振り返ろうと思います。

この時代の番組実見談を語れる人は、ネット上では非常なる少数派です。
それがため、本当にテレビが熱気を持っていた時代の番組、
出演者に関する記述・記憶が、現今の劣化番組の情報再生産も有り、
どんどん掻き消されていってしまっております。
ぜひ奮って、皆さんのご記憶をお聞かせ下さい。
皆さんが楽しんだご記憶を、歴史の片隅に、ぜひ積み重ねて戴きたいと思います。

コメント欄も含め、全ての文責は当ブログ設置者が請け負っております。
どうか深く考えず、お気楽に書いてみて下さい。
記憶違い、不確かな話、今では表現規制されるような話、
昭和のテレビに関する話であれば、ここは、ほぼなんでも受け付けております。
往時を知る方の、一人でも多くのコメントでのご参加をお待ちしております。
今回は、新進レコード会社の勃興を振り返る、この番組です。






「若い」とか「若さ」、「ヤング」なんて言葉が闊歩していた時代でした。
敗戦で一度ガラガラポンされた日本に於いて、所謂団塊の世代は、
正に次世代日本の象徴であったわけで、彼らが若かった時代は、
再出発の戦後日本が若かった時代でもあったわけです。
彼らが高校生になろうという頃、即ち、昭和36、7年頃ですかね、
それはテレビも黎明期を脱し、完全に普及期に入っており、
段々と内容も充実しつつありましたし、制作陣も乗ってきていた。
彼ら、テレビも若かった。そうした時代の共時性が、
テレビの世界でも「若い」番組を林立させる事となります。

この番組は、弘田三枝子、水原弘、スリー・ファンキーズ、克美しげる
などが集う、若さに弾けた音楽ショー番組でした。
この顔触れを見て共通点が判る人は、なかなかな芸能通。
皆、東芝レコードに所属していたのですね。
東芝レコードも若かった。
昭和29年、東京芝浦電気、東芝がレコード制作に参入し、東芝音楽工業を設立。
日本コロムビア、日本ビクター、テイチクなどといった老舗との差別化か、
と言うよりは、歴史が無いために若い歌手しかいなかったからなのでしょうが、
それこそヤング向けの若い歌手、若い歌を得意としていた会社でした。

後に自作自演のフォーク勢が出てきて業界の仕来りをぶち壊すまで、
レコード業界は縦の繋がりが非常に強固で、音楽番組でもレコード会社主導の物が多かった。
この番組もそんな具合に、東芝レコード主導だった節が有りますね。
出演者の中でも一際中核に位置していた弘田三枝子は、
当ブログ今般の特集でも扱った事が有りますように、かつてはテレビ子役として活躍。
それも日本テレビが中心でしたが、この番組も日本テレビで、
制作者とはおそらく旧知だったのだろうと思われます。
当時としては傑出していたリズム感から繰り出されるパンチの利いた(昭和語)歌唱は、
ポップス歌手の中でも一際異彩を放っておりました。

そんな彼女が初めて持った自分の番組で、これ以後は昭和30年代、
時代の寵児のように色々な番組を抱えていく事になるのですがね。
昭和39年に何故か東芝からコロムビアに移籍したのですが、
あれだけの歌唱力が有ると、お子様向けというか若者向けの歌ばかり歌うのに飽きたのか?
いずれにせよ、その辺から少しずつ、一時的に露出が減っていく事になってしまうのですが。
この番組では時代の最先端とも言うべきツイスト(昭和語)も習得。
ただ、どんどん仕事が忙しくなっていくのにつれ、
学業との両立が大変だと当時こぼしておりますね。

丸々一年以上も夜7時台で放送されていた番組ですが、
ほとんど語られる事が有りませんし、それほど視聴率は高くなかったのかな。
裏番組はNHK『バス通り裏』、TBS『歌まねチャンピオン』→『みんなで歌おう!』、
NET『ちびっこギャング』と、非常に強力でしたし。
それでもそれだけの期間放送されたのは、提供会社の理解と、
東芝の様々な協力が有ったからなんでしょう。
提供は、ハチブドー酒の合同酒精。
ハチブドー酒は、東京人にはお馴染みの神谷バーの創立者、神谷伝兵衛の作で、
近年では宣伝などではまったく聞かなくなったものの、
当の神谷バーでは今でも普通に売られているという事ですね。
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コメント
この記事へ寄せられたコメント
弘田三枝子さん
東芝からコロムビアに移籍して以後も2年ほどはカバー中心でやってましたよ。
特に1965年ごろは「コバルトシリーズ(SSSレコーディング)」というコロムビアともCBSコロムビアとも違うレーベルでリリースされていたほどでした。
歌謡曲にシフトし始めたのは、1年ちょっとでそのレーベルは頓挫したのか、普通のコロムビアレーベルからリリースし始めた1966年秋ごろからでしょう
そこから「人形の家」の大ヒットまでは「渚のうわさ」がヒットした以外は確かにあんまりって感じですね。
コロムビア時代に関しては↓のサイトが詳しいです
http://columbia.jp/~mico/bio.html
http://columbia.jp/LP/column/column_16.html

蛇足ですが、「渚のうわさ」は公称30万枚ですが、これは鵜呑みにしていい数字なのでしょうか?
ちなみに同じコロムビアの島倉千代子さんの公称枚数は、「愛のさざなみ」のオリコンと公称との乖離を見る限り、実売×4=公称のようですね
2014/08/06(水) 01:38:46 | URL | 鳥飼
昭和40年頃から日本の歌謡曲も巧く洋楽を取り入れるようになって、
洋楽そのものの優位性が無くなり、市場が急速に縮んだんでしょうね。
弘田さんに限らず、ほとんど全員が歌謡曲路線に転向していきましたね。
レコード大賞でも差別されていたし。

「公称」すなわち意訳すると、「表向きは取り敢えずこういう事にしておいて」という事ですよね(笑)。
でも、本当はオリコンよりもレコード会社の方が実数を掴めるはずなんですけどね、当然。
どうも日本は、そういう公正さに緩い文化ですよね。
2014/08/07(木) 20:40:38 | URL | ごいんきょ
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