私的 昭和テレビ大全集
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有楽町で逢いましょう (1957)

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只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版ライト 巻之弐』発売を記念し、
昭和三十年代の番組を特集しております。
その誌面で扱った番組に限らず、今ではあまり振り返られなくなってしまった、
テレビ黄金時代の幕開けを飾る、輝ける昭和30年代を、広く振り返ろうと思います。

この時代の番組実見談を語れる人は、ネット上では非常なる少数派です。
それがため、本当にテレビが熱気を持っていた時代の番組、
出演者に関する記述・記憶が、現今の劣化番組の情報再生産も有り、
どんどん掻き消されていってしまっております。
ぜひ奮って、皆さんのご記憶をお聞かせ下さい。
皆さんが楽しんだご記憶を、歴史の片隅に、ぜひ積み重ねて戴きたいと思います。

コメント欄も含め、全ての文責は当ブログ設置者が請け負っております。
どうか深く考えず、お気楽に書いてみて下さい。
記憶違い、不確かな話、今では表現規制されるような話、
昭和のテレビに関する話であれば、ここは、ほぼなんでも受け付けております。
往時を知る方の、一人でも多くのコメントでのご参加をお待ちしております。
今回は、「有楽町で逢いましょう」に関する動きの解析を試みる、この番組です。






ウイークエンドミュージカルと前置されていたこの番組が始まったのは、
昭和32年3月16日。その名の通りに土曜日の、昼12時15分からの30分番組でした。
前週まで放送されていた『気まぐれ時代』という番組に出演していた、
林家三平、佐山俊二、平凡太郎、逗子とんぼ、藤村有弘がそのまま出演し、
東宝ミュージカルの氏家真紀と新作座の土方文子が新たに加わったもの。
更に毎回の歌手が加わり、第一回では宝とも子、黒岩三代子が出演しました。
ところで『有楽町で逢いましょう』と言えば、多くの人が思い浮かべるのは、
フランク永井による大ヒット歌謡曲、もしくはそれを主題歌とした映画でしょう。
それが世に出始めたのは、昭和32年でも11月頃の話です。
これは、たまたま偶然に同じ題名だったのでしょうか。

昭和32年2月、大阪を本拠としてきた百貨店のそごうが、
有楽町に建設中の読売会館の中に東京店を6月1日に開店すると発表。
当時の読売グループご自慢の読売会館は、
5月20、21日の2日間にも渡って開館式が行われる力の入れよう。
窓無しの外観、エア・ドア、電光ニュース、最新音響で千五百人収容の大ホール、
更には五百人収容のTVホールと、正に時代の最先端を行く威容。
この開館式やTVホールのこけら落とし等は、結構な時間と派手な演出を施された番組で、
日本テレビで大々的に放送され、いかに読売が総力を結集させていたかが偲ばれます。
読売即ち、正力松太郎の意思という事でしょうけど(笑)。

さて、そんな読売会館の中にそごうが開店したというのは、
なんだか闇の歴史というか、表に伝わる話が極端に少ないのです。
それだけご自慢の会館の中で、非常に目立って客寄せの大きな力となるであろう、
そごうに関しては、読売の扱いは恐ろしいほどに皆無。
おそらく、相当にドロドロした内情が有ったように推察されますが。
ともかく、そごうが東京・有楽町に店舗を展開すると発表したのが、2月。
そして、この番組が始まったのが3月16日。
提供会社が、その、そごう百貨店でありました。
つまり、「有楽町で逢いましょう」は、新しいそごうに来て欲しいという、
そごう側による広告惹句を兼ねた番組名だったのでした。

番組が始まった時点では、そごうの東京進出は、そう誰もが知っていた訳ではないので、
この番組の中で、そごうが新しく東京に進出する事や読売会館の出来具合など、
何かにつけて視聴者に知らせていたのではないかと思うのですがね。
前番組は、固定出演の五人のコメディアンによるバラエティ番組でしたが、
そごうが提供となり改題された事により、それに相応しい都会的な内容とされ、
歌とコントによるミュージカルという、後の日本テレビお得意路線の先駆けとなりました。
番組が始まって間も無い4月5日には、ミュージカル番組の向上を図るためとして、
時のミュージカル界の大権威である伊藤道郎が日本テレビ顧問に就任。
野心家・正力松太郎という人は、しかし理想を描き実現させようとする人物でもあった。
正力の死後、新聞屋が局内で大きな顔をするようになり、日テレの名物男・井原高忠が、
「僕は正力さんの日本テレビに入ったのだから」とアッサリ退社したのも判る気もします。

当時はまだ関東にもNHK、日本テレビ、KRテレビ(TBS)の三局しか存在せず、
テレビの普及率も低めだったため、新聞紙面ではラジオ欄が主役で、テレビ欄は片隅。
そのため文字数も少なく、少し長めのこの番組名は省略されがちで、
単に「ミュージカル」とだけなっている日が多く、
正確な放送期間を把握するのがなかなか困難なのです。
ですがワタクシが考えますに、きっと11月30日が最後だったのではないかと思います。
そしてその頃には、「有楽町で逢いましょう」という言葉は、
更に一段階も二段階も大きな動きとなりつつありました。
前段として、夏頃から、そごうが新聞広告での惹句にも、
この「有楽町で逢いましょう」という言葉を使い始めておりました。

まだ普及率としてはやや低めだったテレビよりも、時の娯楽の王様は、まだ映画。
その映画の大映が、「有楽町で逢いましょう」という言葉に目を付け、
映画化しようという動きを始めていたのです。
そごう、レコードのビクター、雑誌の平凡、そして映画の大映による、
長期的展望に立った宣伝本部が立ち上がっていたのでした。
街中、書店、レコード店の至る所に、「有楽町で逢いましょう」という
言葉だけの書かれたビラが貼られ、そごうでは店員の胸にその語が書かれたリボンを飾る。
四社とも広告の片隅にこの言葉を記し、大映はご丁寧に、
全映画の予告末尾にこの言葉を入れていたというのです。

これぞ、当時はまだ認識されていなかった、サブリミナル戦術。
何かを宣伝しているわけでもないのに、その言葉だけは気付かぬうちに
いつの間にか頭に刷り込まれてしまう状態を、四社挙げて作っていたのです。
一ヶ月も経った9月頃にはそちこちの人がこの言葉を使うようになり、
10月には家出娘が書き置きに「有楽町で逢いましょう」と残した事件も。
11月になると、サラリーマンが「明日の5時に有楽町で逢いましょう」と
打ち合わせするのを聞き及ぶに至り、ついに覆面が解き放たれました。
「有楽町で逢いましょう」とは大映の正月映画の題名であり、
ビクターのフランク永井による主題歌の曲名であり、
雑誌平凡に連載される小説の題名であるという事が、正式に発表されたのです。

ウィキペディアではこの辺、事実関係が前後した記述が有ります。
テレビの『有楽町で逢いましょう』と、これら11月前後の動きは全く別個のものです。
フランク永井による歌と、平凡での宮崎博史による小説は11月に発表されたもので、
そごうの開店とはなんの関係も無く、むしろ便乗したものでした。
そごうの開店が賑わったのは、あくまでも自力の宣伝によるものだったのです。
先述した11月30日の放送ではフランク永井がゲスト出演しており、
これはもう間違い無く、これら全ての告知と、彼の歌が披露された事でしょう。
そして、そごうの今で言うメディア戦略は、テレビからそちらへと受け継がれた訳です。
言ってみれば日本テレビから、大映へと受け継がれた戦略。
正力と大映の永田雅一の盟友関係を思えば、これも裏にはドロドロした匂いが(笑)。
そごうが賑わう事は、大家である読売会館にも利益になりますしね。

大映は映画で撮影するために、1m程の石膏による女神像を製作。
大衆は見事なまでに踊らされ(笑)、映画も歌も超特大ヒットとなりました。
そこで石膏だった物を、豪勢にブロンズ像へと作り替え、
しばらく有楽町で待ち合わせの目印として親しまれたのでした。
劇中でその待ち合わせを演じていた川口浩と野添ひとみも、後に結婚。
何から何まで、隅から隅まで計算され尽くしていたような一連の展開でした(笑)。
それにしても、今日で人々が思い起こすものと言えば、
冒頭に書いたように、フランク永井の歌か、せいぜいが映画まででしょう。
レコードも映画も残っており、その後も何度も何度も繰り返して再生され親しまれる。
ここに記憶と伝承の再生産が行われ、文化としての成熟も期待される余地が生じるのです。
対してテレビは、残す事を意識しなかった事が、この番組に限らぬ惨状に繋がっておりましょう。
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コメント
この記事へ寄せられたコメント
そごうと西武
「有楽町で逢いましょう」がそごうのCMソングだったというのはきいたことありますが、そごうの宣伝より後だというのははじめて知りました。

そごうのプロモーションの一環で、同時に企画されていたものだとおもってました。

そごうの東日本初進出の店で、また、長いこと、東日本におけるフラッグシップとして、君臨してましたが、そごうの経営破綻、また、西武百貨店との経営統合で、有楽町店は閉店に追い込まれました。

当時、有楽町にはそごうと西武の両方がありましたが、西武は若者向けというコンセプトがはっきりしていたのに対して、そごうは、総合百貨店型で、コンセプトも中途半端で、陳腐化が著しいものでした。

そこに、そごうと西武の経営統合の話が持ち上がり、まだ新しく、業績のいい西武が残り、そごうは閉店しました。

そごう閉店後すぐに、そごう跡にビックカメラが出店して、当時、有楽町初の家電量販店として話題になり、今や、池袋以上に重要な存在になりました。

また、かつてそごうがやっていた、ジャイアンツ優勝セール、応援ありがとうセールは、ビックカメラが引き継いでます。

しかし、残った西武も、売上は落ちて(特に、若者に特化したというコンセプトが、昨今のデパ地下ブームに乗り遅れた)、また、百貨店全体の不振で、閉店に追い込まれ、有楽町から、そごうの影が消えました。

有楽町西武(マリオンの右半分)の跡には、JR系のルミネが、ルミネ初の駅ソト店舗として出店しました。

なお、西武の後継テナントには、ヤマダ電機とイオンも有力でしたが、この中では、ルミネが一番理にかなっているとおもいます(ヤマダ電機は家電量販店としては大きすぎ、イオンは銀座・有楽町のイメージに合わない)。

2014/08/17(日) 09:07:54 | URL | 10000k
そごうの広告ですら、ワタクシの調べた範囲では、開店当初は使っておりません。
あくまでも、この番組名で使われ始めたものだと思います。
それで夏頃から新聞広告でも使われ始めるのですが。

思うに、そごうだけでなく読売、日本テレビの関係者が関わっているのではないかと思うんですよね、当然。
番組名を決める際に「有楽町」を前面に出したのには、
読売会館に客を呼ぼうという意図が有ったはずです。
でも、そごう関係者が編み出した惹句だという記述は有りますが、
読売・日テレ側関係者の証言は皆無なんです。
この番組そのものに関してすら、現在まで振り返られたことが無いと思います。
これは今後の調査課題ですね。

そんな流れで、ジャイアンツが優勝するとそごうがセールをやっていた時期が有りました。
いまはほとんど無関係としか思えない、ヨーカドーあたりも便乗セールやりますけどね(笑)。
2014/08/19(火) 23:32:22 | URL | ごいんきょ
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