私的 昭和テレビ大全集
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午後のおしゃべり (1959)

該当番組画像募集


只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版ライト 巻之弐』発売を記念し、
昭和三十年代の番組を特集しております。
その誌面で扱った番組に限らず、今ではあまり振り返られなくなってしまった、
テレビ黄金時代の幕開けを飾る、輝ける昭和30年代を、広く振り返ろうと思います。

この時代の番組実見談を語れる人は、ネット上では非常なる少数派です。
それがため、本当にテレビが熱気を持っていた時代の番組、
出演者に関する記述・記憶が、現今の劣化番組の情報再生産も有り、
どんどん掻き消されていってしまっております。
ぜひ奮って、皆さんのご記憶をお聞かせ下さい。
皆さんが楽しんだご記憶を、歴史の片隅に、ぜひ積み重ねて戴きたいと思います。

コメント欄も含め、全ての文責は当ブログ設置者が請け負っております。
どうか深く考えず、お気楽に書いてみて下さい。
記憶違い、不確かな話、今では表現規制されるような話、
昭和のテレビに関する話であれば、ここは、ほぼなんでも受け付けております。
往時を知る方の、一人でも多くのコメントでのご参加をお待ちしております。
今回は、NHKバラエティーの元祖を振り返る、この番組です。






ウイキペディアにわざわざ「日本初の音楽バラエティ番組」と記述されている、
『光子の窓』については、当ブログでもスレは作りました。
何故、わざわざ「日本初の」なんて書いているのか、皆目わかりませんが。
まったくそんな調査をしないで書いているはずなんですよね。
音楽バラエティの定義も難しいですが、歌と軽芝居を併せて扱う番組なんて、
黎明期からゴロゴロ有ったと思うんですよ。
『光子の窓』と似た形式の番組という事でも、既述『有楽町で逢いましょう』
あたりが元祖になると思います。伊藤道郎を日テレ顧問にまでしてますしね。
が、それとてもまだ調査途上で、とても断定できる話ではありません。

ただまあ、専門的にはともかく、世間的に通りの良い話としては、
『光子の窓』が初のショー番組と言われても、そう変な話でもないでしょう。
初の国産テレビ映画は『月光仮面』、初のアニメ番組は『鉄腕アトム』、
それより前に作られているものはどれも放送当時から知名度が低すぎて、
残念ながら、世間的には話が通じないですからね。
ショー番組の元祖も、『有楽町で逢いましょう』なんて誰も覚えていない番組を
挙げても詮無い話で、『光子の窓』という事でいいでしょう。
そのディレクター兼プロデューサーの井原高忠は、
もって和製バラエティの祖とも言える存在なわけです。

その『光子の窓』を書いていたのが、三木鮎郎とキノトールという、
テレビ黎明期にとにかく書きまくっていた放送作家の始祖たち。
やがて「当時は」若手だった永六輔という人が加わる訳です。
ちなみに、三人とも三木鶏郎の下から出てきており、
ラジオ『日曜娯楽版』に始まった日本のバラエティ門流は、
テレビの世界でも三木鶏郎を大元の幹として始まっていると言えます。
ただ、永六輔は途中で下ろされてしまいます。

あの60年安保騒乱の際、デモにかまけて『光子の窓』の台本を書かなかったという事で、
ほとんど完全無欠主義者のような井原高忠から絶縁されてしまうのです。
小林信彦の著書では、その後も永六輔は『光子の窓』を熱心に見て、
他者の書いているコントが「落ちない…」と気に懸けていたというのですが。
国産初のバラエティショーを下ろされ、井原高忠に失格の烙印を押された事は、
若き永六輔にはかなり尾を引く出来事だったのだろうと思われます。
先日、闘病中の永も車椅子で参加した『夢であいましょう』のイベントを見ましたが、
中で永六輔が、井原の名こそ出しませんでしたがその辺の話をチラと語っていたのが、
話を知っているワタクシには可笑しかったですけど。本当だったんだと(笑)。

そうして失意の永六輔に、拾う神が現れたのですね。
それこそが、後にその『夢であいましょう』を制作する事になる、
NHKの末盛憲彦というディレクターでした。
末盛は、永が井原に切られたという話を聞き及んでいたようで、
それで自分の番組で書いてくれと頼んだらしいのですが。
そうして作られた番組が、この『午後のおしゃべり』でした。
昭和34年10月6日に始まったこの番組は、「テレビ・ジョッキー」と紹介され、
生活に直結した話題や時事問題を、歌と踊りとコントを交えて扱うというものでした。

毎週火曜の午後1時40分からの20分という時間としては、
あまりにも豪華と言うか、洒脱な番組と言えたのではないかと思います。
第一回の特別出演者は、森繁久彌一家と江利チエミですよ。平日20分番組で。
テレビも大いに普及し始めて潤沢になっていたであろうNHKならでは(笑)。
演出・末盛憲彦、作家・永六輔(後にキノトールも)、ピアノを中村八大。
踊りがレ・パンテールに司会が中島弘子ときては、もう、そのまま『夢であいましょう』。
実際、NHK内部での扱いも、改題して時間帯を移動させた同一番組という認識でした。

時に永六輔・中村八大は、水原弘に書いた「黒い花びら」が大ヒット中。
八大は学生当時から非常に高名なジャズ音楽家でしたが、永が世間から注目されるのは、
その「黒い花びら」がレコード大賞を受賞してからの話です。
日本も、テレビも、バラエティも、八大も、永も、全てが上げ潮に乗っておりました。
常連出演者には三木のり平、黒柳徹子、といった面々が活躍し、
更にジェリー藤尾や岡田眞澄なども顔を出すようになっていきます。

どんなテーマを扱っていたかというと、「お見合い」「結婚」「浴衣」「椅子」
「キャンパスライフ」「正倉院」「ミュージカル」「針供養」等々等々。
およそ番組主旨を量りかねるゴッタ煮のような話題でしたが、
それが「おしゃべり」という番組名の意図する所だったのでしょう。
昭和35年10月18日放送には、公職選挙法に関する著書も有る桜沢東兵衛が出演し、
黒柳徹子と対談。アメリカなどは人より党で、事前の選挙運動などしない
といった話をしたりと、歌と笑いだけには終わらない内容。
後年の『夢であいましょう』よりは、堅めの話も混ぜていたようです。

『夢であいましょう』も数本がキネコで残っておりますが、
驚くべき事に、その前身で昼頃のおしゃべり番組であるこれも、
何本かが残っているというのですね。
先のイベントで黒柳が語っていたところでは、おそらく末盛憲彦が、
出演者に反省の意味で見せるために録っておいたのではないかと話しておりました。
全て生放送でしたから、出演者も演出者も、通常は実際の画面を見られなかったのです。
日テレの井原高忠に続き、NHKのショー番組を生み育てた末盛憲彦は、
その後も『ステージ101』『ビッグショー』などを作った人でもあります。
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