私的 昭和テレビ大全集
Google
Web全体から検索 当ブログ内 検索
総計
昨日  本日

04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -



親バカ子バカ (1959)

該当番組画像募集


只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版ライト 巻之弐』発売を記念し、
昭和三十年代の番組を特集しております。
その誌面で扱った番組に限らず、今ではあまり振り返られなくなってしまった、
テレビ黄金時代の幕開けを飾る、輝ける昭和30年代を、広く振り返ろうと思います。

この時代の番組実見談を語れる人は、ネット上では非常なる少数派です。
それがため、本当にテレビが熱気を持っていた時代の番組、
出演者に関する記述・記憶が、現今の劣化番組の情報再生産も有り、
どんどん掻き消されていってしまっております。
ぜひ奮って、皆さんのご記憶をお聞かせ下さい。
皆さんが楽しんだご記憶を、歴史の片隅に、ぜひ積み重ねて戴きたいと思います。

コメント欄も含め、全ての文責は当ブログ設置者が請け負っております。
どうか深く考えず、お気楽に書いてみて下さい。
記憶違い、不確かな話、今では表現規制されるような話、
昭和のテレビに関する話であれば、ここは、ほぼなんでも受け付けております。
往時を知る方の、一人でも多くのコメントでのご参加をお待ちしております。
今回は、松竹新喜劇と藤山寛美のテレビとの出会いを振り返る、この番組です。






松竹新喜劇の渋谷天外は、テレビ嫌いで通っておりました。
初期にはNHKで数本の単発喜劇をやったようですが、
その時に人間本位ではなく機械本位と感じたとかで、
以来、テレビは敬遠しておりました。
要するに、初期のテレビは全てが未熟で、それは機械的な物も含めてで、
どうしても人間側が機械的制約に合わせなければならなかったのでしょう。

しかし、昭和34年に関東でフジテレビが開局すると、
親会社の一つであった松竹の働きかけも有って、
フジで『新喜劇アワー』が放送される事となり、垣根は取り払われました。
天外の当時談が面白くて、テレビを敬遠する天外に、
座員が「そんなこと言わんと、お小遣い稼がせてえな」と言うのでと(笑)。
しかしそこでも、明蝶と口論する場面でカメラに収めるために顔を近づけろと言われ、
キレイな女優はんやったら一生懸命やりますけど、明蝶君とではって感じで、
やはりテレビはコワイという感じの感想を残しております。

遡る昭和33年、ちょうど東京の日本テレビから5年遅れで、
関西での日本テレビ系列局・読売テレビが開局。
そこの香坂信之プロデューサーは、後に日本テレビ芸能局長となる脚本家、
阿木翁助との雑談で渋谷天外に渡りをつけてもらえる事となり、
それから度々接触して開局一年が過ぎた頃、飲みながらの話で
「寛美の阿呆もの」をやりたいと提案したところ、
「それならわしもバカになろう」と天外が応じて、この番組となるのです。

提供は、広島の自動車会社・東洋工業。マツダですね。
新喜劇のユニット出演で、45歳と歳いってから生まれた一人息子に
徹底的な親バカぶりを示す老舗の旦那と、寛美の阿呆ぼんが繰り広げる喜劇。
当初からまずまずの人気ではあったものの、回を重ねる毎に人気は鰻登りで、視聴率は50%を突破。
新喜劇や天外・寛美の名は、日本テレビで放送されていた関東でも知れ渡りました。
正式題を『天外の親バカ子バカ』と言ったように、当時の新喜劇はあくまで天外が中心ですが、
世間的にはこれで、藤山寛美という存在が大きく取り上げられたかと思います。

天外のテレビ嫌いには、テレビに出ると舞台が寂れるのではという懸念も有ったのですが、
そうして寛美がテレビで人気を獲得すると、舞台の方も押すな押すなの大盛況。
新喜劇、藤山寛美はたちまち引く手あまたとなり、様々な番組に出まくりました。
中には、東宝系列の大村崑と組んだ『ちゃりんぼ兄弟』などという異色作も有りましたが、
ストロングスタイルの大村とショーマンスタイルの寛美が試合をしたところで、
なんかチグハグな印象を見る者に残して、あまり成功とは言えなかったようです。
が、後の巨泉・前武の組合せに匹敵するような、神風タレント(昭和語)の共演ではありました。

テレビは半年か一年、人気が有っても有るうちにやめるというのが天外の方針で、
桁違いの人気だったこの番組も、半年ほどで一旦終了となりました。
けれども局が当然放っておかず、昭和35年5月から年末まで再開されました。
そうしているうちにマンネリが来たのか、視聴率も下がりだし、
30%を切ったので、もうやめようという事になったのだと言います。
今とは時代が違うとは言え、30%近辺は当時でも高視聴率ですが、
野垂れ死にさせたくないというのが新喜劇側と局側の共通認識でした。

作・演出・主演で各局と舞台を掛け持ちの天外が、過労で倒れた事も有ります。
それでも生放送のテレビに穴は開けられず、天外の自宅で16mmで撮影した事も有るとか。
もしかすると関係者宅に、その時のフィルムが残っているかと思うのですが。
新喜劇側の強行日程で苦労したのは制作側もで、スタジオに来てから台本を渡されるため、
小道具の準備が大変だったのは全部の局で共通。
遺影が必要だったため、天外に似た感じの制作陣に軍服を着せ、
撮影した写真でなんとか本番に間に合ったとかの苦労が絶えませんでした。
その台本だって、天外はいちいち書く時間が無いため、テープに吹き込んで局側に渡し、
局の方で台本に書き起こすという煩雑さが有りました。
しかし、それでも番組をやって貰いたいほど、新喜劇が人気の有った時代です。
関連記事


◆◆ 関連記事 ◆◆

Loading...

[猫カフェ]futaha



この記事を読んでくださった方へ

この記事を読んだよ~という方、できれば下のコメント欄からコメント下さい。
ご自身の想い出、この記事への感想、情報、なんでも結構です。
記事や最終コメントの日付は関係ありません。
あなたのコメントがこの記事に再びの息吹を下さるのです。
トラックバック受付アドレスは、コメント欄の下にあります。
コメント
この記事へ寄せられたコメント
↑
コメントを投稿する
HP
アドレス:
コメント:
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック
↑
レンタルCGI
管理者用
ブログパーツ