昭和テレビ大全集 私的昭和テレビ大全集
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力道山の夢 (1955)

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只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版ライト 巻之弐』発売を記念し、
昭和三十年代の番組を特集しております。
その誌面で扱った番組に限らず、今ではあまり振り返られなくなってしまった、
テレビ黄金時代の幕開けを飾る、輝ける昭和30年代を、広く振り返ろうと思います。

この時代の番組実見談を語れる人は、ネット上では非常なる少数派です。
それがため、本当にテレビが熱気を持っていた時代の番組、
出演者に関する記述・記憶が、現今の劣化番組の情報再生産も有り、
どんどん掻き消されていってしまっております。
ぜひ奮って、皆さんのご記憶をお聞かせ下さい。
皆さんが楽しんだご記憶を、歴史の片隅に、ぜひ積み重ねて戴きたいと思います。

コメント欄も含め、全ての文責は当ブログ設置者が請け負っております。
どうか深く考えず、お気楽に書いてみて下さい。
記憶違い、不確かな話、今では表現規制されるような話、
昭和のテレビに関する話であれば、ここは、ほぼなんでも受け付けております。
往時を知る方の、一人でも多くのコメントでのご参加をお待ちしております。
今回は、力道山初主演ドラマを振り返る、この番組です。






少し前に『チャンピオン太』という、力道山の出演した子供向けドラマを扱いました。
歌や演技はからきし苦手だった力道山が出演を決意したほど、
その頃はプロレスに対する偏見も芽生え始めていたのでしょう。
大抵の有名人は何かしらのレコードを吹き込んだ昭和時代ですが、
力道山は、歌に関してはおそらくレコードが皆無。
但し、テレビでは余興として歌った事も有るようで、
非常に参った風なコメントを残しておりました。

さて演技の方ですが、映画は幾つか有るものの、テレビとなると極端に少ない。
これは力道山全盛時、テレビドラマが生放送だったためでしょう。
そんな力道山が主演するドラマが、昭和30年10月16日から、
繋がりの深い日本テレビで始まったのでした。
これは、毎週日曜夕方の6時25分から約30分のドラマ。
「約」というのは、次の番組が7時からのためで、
通常ですと6時半から始めそうなものですが、何分、生演技に自信が無いであろう
力道山の主演という事で、余裕を持たせたのでしょう。

何故、そんな危なげな生ドラマに力道山は挑戦したのか。
基本的にはやはり目立ちたがりではあったのでしょうが、相手役にも惹かれたのでしょう。
その相手役は、伊東絹子。
数年前にミス・ユニバース世界大会で3位入賞し、八頭身美人の代名詞となった女性。
役柄としては力道山も伊東絹子も本人役で、実際の力道山を投影させたもの。
絹子の友人・くみ子に川田真理江、その弟の俊夫に伊藤彰敏、
隣人の池見に熊倉一雄といったところが出演しております。

さて、先ほど「毎週日曜」と書きましたが、これまで発表されている資料の恐らく全てで、
「単発ドラマ」としてこの作品は紹介されてきていると思います。
が、実はこれは定時番組でした。
少なくとも発表の時点では(笑)。
事実、翌週の10月23日には第二回が放送されているのです。
但し、開始時間はいきなり夜9時になりました(苦笑)。
この回からは日本テレビが一押ししていた童謡歌手の近藤圭子が出演というのも売りでした。
当時はまだ、児童福祉法による出演時間の縛りも無かったのでしょう。

苦しいトレーニングの結果、日本人として初のプロレスラーとなった力道山が、
帰途に就こうとしたその時、花束を持った可愛い少女が。
花束には、「新しい門出を心からお喜び申し上げます。
短気を起こさないで、男らしく堂々と茨の道を切り開いて下さい。黒田」
という手紙が添えてあったのでした。
実録風主演ドラマで「短気を起こさないで」と言われるのも力道山ならではで(笑)、
最後は酒の上の喧嘩で命を落とすわけですが、それまでにも数限りなく
酒の上の不祥事で新聞沙汰となっておりました。
今でしたら完全なる炎上要員で(笑)、そんな所も時代が生んだ英雄たる所以です。

で、これを最後にこの『力道山の夢』に関する話はピタリ出なくなります。
一切の説明もお詫びも紙上には無し(笑)。
翌週はプロレス・アジア選手権の前夜祭が放送されましたので、
おそらくそこでは事情を説明していると思うのですが。
そんな予定が前々から有ったら日テレが連続ドラマを始めるはずも無し、
きっと力道山が唐突に前夜祭の放送を働きかけたのでしょう。
おそらく、わずか二回の出演で生ドラマは懲り懲りとなったのでしょうね。
相手役の伊東絹子もそれほど演技慣れしておらず、出来は良くなかったのかもしれません。

そもそも確かに、開始当初から日程としては非常に無理が有りました。
アジア視察から帰って一週間そこらの上、映画も二本抱え、
更にそのアジア選手権もすぐに始める予定が有ったのでしょうから、
およそ不慣れな生ドラマをこなせる道理の有るはずが無かったのです。
結局、その後も試合が有る時はアジア選手権が放送され、
無い時でも力道山が何かで画面に出るでもなく時は過ぎたようです。
おそらくたった二回で打ち切りだったのでしょうが、これも生時代ならでは。
それにしても、提供会社の桃谷順天館は災難でした(笑)。
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コメント
この記事へ寄せられたコメント
リキス ポーツパレスは…

 この番組、見たかったんですよね。…と、思い出しました。
何の予定がはいったのか、今となってはさっぱり思い出せないけれど、ともかく見逃し
たのです。そうか、たった二回しか放送されなかったんですね…。「チャンピオン太」は
毎週見ていて、当時大ヒーローだった力道山が出てくるのが楽しみでしたが。
 この力道山が本拠地にしていたのが、リキスポーツパレス。渋谷駅から歩いて5~6分
の所にありまして、私が大学に入ったころ、そのビルはなんとキャバレーになって
おりました。夕方になりますと、化粧バッチリ、髪型バッチリのキレイなおネエさま方が
ゾロゾロとそのビルの中に吸い込まれていくのです。いくら夕方とはいえ、太陽の
光の下では余りお近づきにはなりたくないくらい濃いお化粧の、それはもうキレイな
方々でありました。力道山が生きていたら、どう思うのかな…と当時、感じました。



2018/05/29(火) 16:25:38 | URL | 0011ソロ
桃谷順天館
現在は明色化粧品に社名変更し健在です。
2018/05/30(水) 21:36:48 | URL | TSUSHIMA
昭和30年代前半のテレビ
この頃、テレビ番組を見ておられた方って、街頭テレビ、外国製テレビ、国産テレビ、秋葉のテレビセット?の組み立ての、どちらで見た方が多かったのでしょうか?

街頭テレビって、後ろの方からでも、見えたのでしょうか?
2018/06/04(月) 18:02:10 | URL | 昭和ど真ん中
● 0011ソロさん
当時、大人気の力道山ですから、楽しみにしていた子供も多かったと思うんですよね。
やはりテレビを見ていた人は覚えていましたか。

リキさんが東京オリンピック後も生きていたら、どんな活動をしていたかは凡人には想像も出来ませんね。


● TSUSHIMAさん
というか、桃谷順天館の社名も残っているようですね。


● 昭和ど真ん中さん
そうですよね。そういう疑問、わかります。
街頭テレビに関しては、後ろの方はほとんど絵も音もわからなかったかと思われます。
2018/07/01(日) 23:51:25 | URL | ごいんきょ
昔のテレビは

 テレビ放送開始の頃は、受像機のほとんどは外国品、とりわけアメリカの
GE社の製品がほとんどだったようです。放送開始に合わせて、日本の
電機メーカー各社は参考用に本場アメリカの受像機を3~4台は購入しました。
しかし大変高価であったので3台購入にサラリーマン10年分の金額がかかったと
聞きました。つまり1台が約3年分強の年収の価格だったわけです。父親が
某電気メーカーに勤めておりましたので、この辺は父親からの受け売りです。
こんな高価なものを一般の家庭が買える訳がなく、日本全国合わせても何百台
だったでしょう。もっとも開始当時は東京近辺しか受信できませんでしたが…。
国産の受像機も販売されていたのですがこちらも年収1年分以上でした。
ただし性能はアメリカ製に比べてかなり劣っていました。画像がチラついたり、
安定しなかったり、ゆがんだりしていたのです。
 放送開始して少し経った頃、街頭テレビが設置されます。私が街頭テレビを
見たのは2回ほどですが、そりゃあ周りは凄い人の数でした。見たのは新橋か
有楽町の駅前だと記憶するのですが、とにかくテレビに近づけませんでした。
当時まだ子供だった私は、大人の波の間からやっと見る事ができました。
その時、生まれて初めてテレビ(らしき物)を見たのですが、本当に小さくしか
見ることができませんでした。マッチ箱より小さく見える受像機ですが、画面が
その中にあるのですから、白っぽい画面の中で何やら動いているみたい…の
程度しかわかりません。ただ、音の方はボリューム一杯になっているらしく、
はっきりでは無いのですが、何を言っているのかぐらいはわかりました。。
 私が見た(?)のは大相撲の中継でした。よく街頭テレビで、力道山の活躍を
多くの人々が街頭テレビで熱狂したと書かれているのですが、実際に画面を
どれだけの人が見られたのかかなり疑問です。実は聴いていただけないんじゃ
ないでしょうか? ただ、私は力道山の大々ファンでありましたので、その場に
もし私が居合わせたら、実況放送の音声だけでも興奮して聞いていたでしょう。 
 また、雑誌などに街頭テレビの写真が載っていたりするのですが、肝心の
受像機のアップなのが無いのです。たまにアップがあったとしても、レプリカ
の写真なので国産の初期の受像機がケースに入っています。最初の頃の
街頭テレビで、品質の悪い国産品なんて使っていたのか? しかも当時から
東京五輪前あたりまで、国産テレビの主流は14インチで現代の感覚からすると
驚くほど画面が小さいのです。対してGE社製は17~21インチが主流だった
ので、性能が良くて大きな方を使ったんじゃないのか? なんたって宣伝の
ために設置したんですから、みみっちいことはしなかったんじゃあないかな…?
国産テレビ受像機だとすると、小さいわ、見にくいわで、見るのは大変だった
ろうな。まぁ、実際に街頭テレビを文字通り間近で見たわけではないので、
これ以上のことは言えません。
 ただこの後、東京五輪前にはカラーテレビの街頭テレビもあったと記憶
しますが、これは当たり前として国産テレビであったと思います。放送して
いないときは、カラーのテストパターンが写されておりました。ちょっと
わざとらしいですよね? これはどこで見たのか思い出せません。
 皇太子(後の平成天皇)御成婚(1959年)になると、お二人の街頭パレードが
中継されるというので、受像機が爆発的に売れ始めます。我が家がテレビを購入
したのも正にこの時です。我が家はミーハーだったのです。この当時、価格は
月収の2~3か月分まで下がっていたのです。大きさは14インチで、父親の
メーカーの社員割引のテレビですから、もちろん国産です。GE社製なんて
高額なままでしたから、私の周囲では持っている人は一人もいませんでした。
この頃にになると国産も性能がかなり向上していました。以後、テレビといえば
国産品が当たり前となります。
 秋葉原あたりで部品を買い集めて、受像機を作る方は、余りいなかったように
思います。私だけの経験ですが、部品を集めて作った受像機を見たのは、たった
1回限りです。これは1から組み立てたと説明を受けたのでわかったのですが、
ちょっと見では、完成品なのかそうでないかはわかりません。もしかすると
もっとあったのだけれど気が付かなかっただけかもしれません。ただ当時、
レコード、ラジオなど音にこだわる人は多いのですが、テレビにこだわっている
人は少ないんです。蓄音器やラジオを手作りしている人は、かなりいたのです
けれども…。なんにしても、今は昔の話であります。

2018/07/09(月) 12:38:48 | URL | 0011ソロ
0011ソロ様へ 参考になりますか否か?
拝啓 よろしくお願いいたします。
実は、自分の製造元=馬鹿親父 現91歳 某介護施設入り の実の兄貴=現96歳が、つい最近まで「都下某市で家電屋」やっておりました。おそらくは戦後すぐに始めた国内でも最も古い家電の個人商店でした。こういった古だぬき親父の類は、某県下の家電屋親父(死亡)も居て、何でも「旧大日本帝国海軍のレーダーエンジニア」として活躍し、松下さんや早川さんから表彰されたという現物まで持っていましたね。更に驚く事に、自分の長年の研究課題「旧大日本帝国を破滅に導いた主因は何か?」との質問に、明確に「日本には当時隅から隅まで敵国スパイが入り込んで」おり、その明確な証拠、、、、いゃ此処からはちょっとやばすぎてとても書けないっのですが、つまりこういった面白い家電屋親父がわんさかおりました。
当時、0011ソロ様の時代にうちの馬鹿親父の兄貴が何処でパーツを仕入れていたのかまでは聞けませんでしたが、この親父兄貴は「テレビの組み立てはもちろん電蓄=当時唯一のオーディオ装置=全一体型のアンサンブルタイプ」をよく作り、物凄く売れて儲かったと。確かにテレビの組み立てはやっていたようですが、当時レディオ組み立て販売と電蓄がメインだった様です。そういう理由から当時の我が家は、家は古くぼろく便所はポットン風呂場は巻割り、隙間っ風ピューピューの見事な糞ボロ屋にも関わらず「家電製品だけは豊富」でした。おそらくは、馬鹿親父の兄貴から何かと融通してもらっていたと推測されます。
此処で、自分が以前から研究していた課題「録画機の普及」です。
表面上は、大阪ABCが最初にVTR=
本家アメリカのアンペックスインクが特許製造=ビデオテープレコーダーの略 が本家でした(最も当時、例のビングクロスビーが自分の姿を後世に残すためだけに、独自フォーマットのVTRを製品化しましたが、当時アンペックスは「レコーディングスタジオ用途の2インチMTR=オーディオマルチトラックレコーダーのテクニックをそのまま応用する事で、2インチVTRの開発に成功し普及させた勝ち組でした。当時アメリカでは「RCA=レディオコーポレーションアメリカ」が録画機TTR=テレビジョンテープレコーダーを開発し市販もされた様ですが。
此処で驚くのは、某専門誌によりますと、昭和30年代初期に、このアンペックスのVTRを個人輸入して、自宅で密かにテレビ録画を楽しんでいた「とんでもねぇ奴らがいた」と言う恐ろしい事実です。現在価値値段で約1500万円したっと言うこのVTRを日本の某個人が使っていたと言う知られざる事実、、、、恐ろしいですネェ怖いですネェ、、、金持ちってぇ何時の時代にも居たのですね。
但し、一体どんな番組を録画していたのか?までが掴めません。
最近、某文献をあたると、当時やはり中古のVTRを輸入したと言う「東北新社の有村の大親父の話」ですと、「やっと中古のVTR2台を輸入して設置したが、国内の技術屋が数ヶ月かかっても何等の画も出ない。困り抜いて現地アメリカにエンジニアの派遣を依頼したら、来たのが何と子供の様な若造、、、こんなのを寄こしてと激怒したが、その小僧が何日かいじくってたらちゃんと画が出た。此処で自分は日本の技術屋がいかに遅れていたかを知り、まず技術屋の養成から始めようと誓った」と。今日の東北新社の攻勢はこんな所から地道に始まったのですねえ。今日、デジタル全盛で「ケチなスマフォ一台で、音楽映像編集製作まで出来る」と言いますが、、、、、こんなケチなおもちゃでは「放送用途やポストプロダクションには到底使えない」のです。我々は、先輩諸氏の血の出る様な苦労苦心を知り、物事には順序とグレードの相違が在る事、身の程をわきまえる事、技術に溺れぬ事 を肝に銘ずる必要があります。敬具
2018/07/09(月) 15:34:47 | URL | よしたかくん
Re:0011ソロ様へ 参考になりますか否か?
☆よしたかくんさん☆
お久しぶりです。

> 「家電製品だけは豊富」

うちも比較的そうでしたよ。父が百貨店勤務だったので、
家電以外もいろいろ融通してもらったようです。
廃棄品の売り場の棚を自分で改造してシェルフに仕立てたり。

ボットン便所(入居当初臭気塔無し!)の二軒続きの長屋(借家)。隙間風も同じ。
風呂はさすがにバランス釜でしたが昭和30年頃に
新築された当時は薪焚きだったのかもしれません。
家電は新品もありましたが親戚のお古だったり、父が知人から買ったり。
一部は今も私が持ってたりします(笑)。

1981~82(昭和56~57)年導入だったと思いますがクーラーもありました。
GEのウィンドウファン「スキニー1500」。
6月のある日、母が試しにスイッチを入れてみたら効きすぎて寒い寒い(笑)。
6畳2間でしたが冷房能力はホントに1500だったのか。
程なくしてマンションに引っ越す際、親戚宅に譲渡されたようです。

> 昭和30年代初期に、このアンペックスのVTRを個人輸入

同じ頃(昭和32/1957年)に我が母校の中学校にはNEC製のVTRが入っていたようです。
私立ではなく公立校なんですが、その当時校内テレビ放送設備の整備に
力を入れていた横浜市立の学校だったから、というのもあるんだろうと思います。

1980年代末頃まで残っていて(もちろん放置状態)、その後廃棄されたようですが、
実は今思えばそれらしきものが母校の小学校近くの
スクラップ屋に持ち込まれているのを目撃してます。
OA機器が持ち込まれていたり、74HC系の標準ロジックICが
まとめて廃棄されてるのを持ち帰ったり(ホントはダメw)、あそこは面白かったな~。

> 電蓄

これは興味深いですね~。
当時は電蓄のキットというのも市販されていたようですね。
「電」の付かない蓄音機のサウンドボックスと付け替えて、
ラジオの専用端子に繋いで使うピックアップとか。

テレビも、これは古い「模型とラジオ」誌で見ましたが、
主婦向けの製作講座があったみたいですね。
女工さんフツーにいるからイケると思ったのか(笑)。

> 松下さんや早川さんから表彰された

私の母方祖父(明治末期生まれ、故人)も
「東芝の技術者に誉められたことがある」って言ってましたよ。
神奈川県内の下請けの工場に勤めていたようですが、
具体的に何を造っていたのかは不明です。
2018/07/11(水) 23:22:34 | URL | くろねき
Re:昔のテレビは
☆0011ソロさん☆

> 現代の感覚からすると
> 驚くほど画面が小さい

20インチ以上だったか25インチ以上だったか、
かつては独テレフンケンが特許持ってた、という話がありましたっけ。

小さな画面を大きく見せるには、画面の前にレンズを置いて
スクリーンに投影するという方法がありますが、
プロジェクターとかリアプロジェクションディスプレイ
(テレビ)っていつ頃からあるんでしょうね?
2018/07/11(水) 23:27:57 | URL | くろねき
くろねき様 ご訪問感謝とご質問への回答
拝啓 よろしくお願いいたします。
まず「小さな画面を大きく見せるインチキ拡大何某」ですが、記憶ではうちの例の馬鹿親父?の話ですと相当昔っから「テレビ画面の前に大きなレンズ?を置いて拡大して見る」ってぇおもちゃ?みたく物が売っていた様です。その後ご承知の通り1979年前後に、確かシャープだっと思いますが「システムの中核に小さいテレビを隠し、その光源を拡大して、付属しているプロジェクターに投影して観る」なんてぇ物が流行っていた様です。その後歯科メーカーのデントピア?などでは、手持ちのテレビを光源に使って拡大するプロジェクターが流行りましたが、当時現物観てがっかりしたのは、やはり画面がボケて使い物にはならないなと。本放送ならともかく、一度当時のアナログビデオデッキに録画されたもの等は観るには耐えられなかったと。まぁ貧乏人の猿知恵でしょうか。

「電蓄、テレビ、レディオのキット」=記憶では、ご指摘の通り当時からキット化?されていた製品も在った様です。これは、「中身と外見が全然別」で、例えば電蓄やレディオは中身だけを買って来て、器用な家電屋なら自分で外見のキャビネットを木工して組み立てたが、不器用な奴は近所の暇な大工に頼んでキャビネットを組んでもらっていたそうです。また当時から「ハイファイ思考のマニア的客」もいたらしく、例えば?もっとスピーカーを大きくしてくれとか、各部のパーツの精度をアップしてくれとかは在ったといいます。更に当時「一部の外国からの輸入クラシックのアナログディスクレコード」には、当時としても規格外の25センチとか35センチのLPがあり、通常の電蓄のアームでは届かないので特注品が必要だったと。こういう要望にも応えていた様です。

「街頭テレビってぇあんなに小さくて本当に外で見聞きできたのか?」=
一応自分で出来る範囲の極少人数への取材ですと、結局「何だか解らないけんども皆が集まっているから観にいっただけ」ってぇのが正直な感想の様です。何せご指摘の通りの小さな画面と貧弱な音環境、更に周囲のノイズにかき消されて雰囲気しか伝わらなかったでしょうね。自分世代の一つ前の話ですが。

「昭和30年代初期の俗称VTRについて」=確かに当時国内メーカーでもソニー、日立、東芝、日本電気NECなどがこぞってアンペックスをコピーした2インチVTRを造り始めた頃で、価格はかなり下がっていた様です。これは国賊売国奴の非国民の象徴と揶揄される「NHKの国産品主義」も大きかったと(早く解体しろよ)
此処で、本当に当時から馬鹿高価なVTRを個人輸入して密かに楽しんでいた奴らがいたのか?ですが、この文献は業界では信用ある某専門レコーディング専門誌に書かれていた内容です。 実は、我々は例えば「アナログシステムシンセを国内初に輸入したのは冨田勲先生」と言われるが、どうも実際はそうでも無いようで、ずっと以前からほそぼそと個人輸入や何かで使っていた連中が居た事は確かです。現に「水戸黄門BGMが本当にシンセを使っていたならまさに回答そのもの」ですが。
つまり、当時から国内には「密かに知られずに、こっそりと時代の最先端趣味を楽しんでいた粋人が居た」と言うことなのでしょうね。此処が日本の底力ではないのかなぁと。更に1979年前後の例のラジオ雑誌の広告に「2インチVTRの中古が30万円」との広告がのっていました。

「元帝国海軍レーダーエンジニア出身の家電屋親父」=この親父は某県下ではなかなか有名だったらしく、松下さんや早川さんから頂いた表彰状ってぇ現物見ましたが、まぁ立派な額に入った凄いものでした。おそらくは、製品を数多く売ったか技術的な貢献があったかでしょうね。当時、現パナソニックの松下さんがエンジニアとしてはどの程度だったのかははっきりしない点がありますが、ソニーの森田さん井深さん、ティアックの谷さん等は元々がエンジニア出身であり、そういう意味では自分も尊敬しています。

此処で、自分の永年の研究課題であり生涯の目標でもある「何故大日本帝国は負けたのか?」です。通常世間で言われる戦史屋や歴史屋、アカデミックな御用学者先生などでは絶対に解らない「旧帝国海軍レーダーエンジニア出の親父」から聞き出した事は、まぁ書ける範囲でのみ書きますが「決して日本は言われる様な無条件降伏を呑まされる状況では無かったはず」と。もっとずっと有利な条件での講和が出来たはずと。それを妨害し日本を破滅に導いた大国賊非国民売国奴が日本中におり、それは「      」にまで及んでいた事と。更に日本軍の電気電子兵器の開発研究は遅れていた事、陸軍海軍研究の重複や争いなど、国賊を利することばかりだったと。更に自分の質問で「帝国海軍の     が戦死せずに生きていたと言う話は本当か?」との質問に「さすがにそれは聞いていないし無いとは思う。しかし、確かな話として、江戸末期から続く大企業で、不思議と同じ「    」を持つ企業等は、明確に「    の   」だったと証言を得ました。
まぁこれ以上はやばすぎて書けませんが、何処かほかのサイト様でこういった事をこころゆくまで書かせて頂けるところがありましたらお知らせ下さい。  敬具
2018/07/13(金) 10:08:00 | URL | よしたかくん
お返事になってますでしょうか?

 私の余り役に立つとは思えない、体験談です。
 テレビが普及し始めたころ、ブラウン管のサイズは14インチが主流でした。
テレビのサイズは画面の対角線の大きさで表示されますので、14インチは約355ミリ
です。つまり左右なら約30センチ程になります。小さいですよね? 個人用なら
ともかく、この画面を1メートル以上離れて、家族そろって見ようというのです。
しかも白黒で、今より画面も暗くて、画質も荒いのです。
 今、CSなどでテレビ放送初期の番組を放送していたりします。例えば「月光仮面」
「まぼろし探偵」から始まって「新選組血風録」あたりまでの白黒作品を見ていると
やけにドアップが多いと感じませんか? これはテレヒ画面が小さいため、アップじゃ
ないと映っている人物や表情が分かりにくくなるためです。そんな小さなテレビですが
私は隔週で、力道山の活躍を見ていました。いまだに「三菱ダイヤモンドアワー」は
特別な響きをもって語られています。(一応「力道山の夢」のコーナーなので)
 どこの家庭でも画面が小さいと感じていましたから、ちょっとイライラいたします。
そこで発売されたのが、受像機の前面をすっぽり覆う、画面を大きく見える樹脂板でした。
全体が透明でやや凸レンズになっています。実際は1.2倍の拡大あたりだと思うの
ですが、実感としては1.5倍くらいに大きく見えました。私がこの最初にこの製品を
見たのは友人宅でしたが、ウォ~、デカイ!!…と驚いたものです。ただ、この製品には
致命的な欠陥がありました。まず、全体がゆるい凸レンズなので、画面の真ん中は良いの
ですが、画面の端や隅になるとゆがんで見えるのです。つまり虫メガネと同じなのです。
そのうえ、斜めから見ると、これまたゆがんで見えたり、画面の一部が見えなかったり
するのです。当時、テレビの真ん前は父親の席でしたから、母親や子供はその横に並ぶ
ことになります。ですので、子供たちの評判はイマイチでした。で、この製品は2年も
経つと無くなってしまいます。製品は樹脂版からできていますから、きわめて熱に弱い
のです。テレビの受像機は意外と熱を帯びるので、1年もすると樹脂版に凸凹が発生して
しまいます。そして、端のほうから茶色っぽく変色をはじめます。こうなるとかえって
見にくいわ、見た目も悪いわでお払い箱となるのです。さて、この樹脂版は何という
名称だったのか思い出せません。
 東京五輪以降になりますとテレビのサイズも大きくなり、21インチあたりが主流と
なります。カラーテレビも徐々に普及してゆきますが、こちらのカラーテレビの方は
最初から21インチが主流となります。やっぱり14インチにはもう戻れないのです。
 そしてカラーが普及した1973年あたりになるとプロジェクターが発売されます。
第1次石油ショックと完全に重なるこの時期に発売されたプロジエクターでしたが、
余り普及はしませんでした。私が初めてこれを見たのは、とある企業の会議室でした。
プロジェクターを使おうとすると、まず会議室の窓にカーテンを掛け、照明も消して
なるべく部屋を暗くしなくてはならなかったのです。そしてテレビ画面がプロジエクター
を通してスクリーンに投影されるのですが、これが暗くてよほど目をこらせさないと
わからないのです。原理は簡単で、テレビ画面がレンズを通してスクリーンに投射する
仕組みになっています。ところが光源がテレビ画面だけなのです。もし縦横2倍の
大きさにしようとすると、映し出される面積は2X2=4、つまり4倍となります。
逆に言えば光が拡散されて、明るさは4分の1となるのです。縦横3倍なら、明るさは
9分の1にまでなります。これでは実用になりません。会議室の椅子にそれぞれが
ゆっくり座って、画面を見ようとしたのですが、結局テレビの前に全員が集まって
見る事になってしまいました。新しもの好きな会社だったので導入したのですが、
余り役に立つシロモノではなかった…という所でしょうか? まぁ、その後改良型も
発売されたようですが、私は見たことが無かったので、このあたりについては
なんとも言えません。
 お役に立てたでしょうか?


2018/07/13(金) 15:23:16 | URL | 0011ソロ
Re:くろねき様 ご訪問感謝とご質問への回答
☆よしたかくんさん☆
よろしくお願いします。

> 「NHKの国産品主義」

まぁ、舶来品ばかり買っていては技術が育たなかったでしょうからねぇ。
NHK技研からの無茶振りで鍛えられたメーカーもあったんじゃないでしょうか?

国産品主義で無茶振りといえば軍需製品。
双眼鏡やレンジファインダー(測距儀)を造っていた日本光学(当時)では、
写真レンズ「ニッコール」の品質がどえらいことになっていて、
それに気付いたライフ誌のカメラマン(先頃亡くなったダンカン氏ですね)が
腰を抜かさんばかりに驚いた、なんて話もあります。

ティアックはかつて、国内メーカーで唯一VTRの静止画再生技術を持った
メーカーだったことがあり、これは東京五輪の際に大いに役立ったそうですね。
2018/07/13(金) 21:30:01 | URL | くろねき
Re:お返事になってますでしょうか?
お答えいただきありがとうございます。
プロジェクターの始まりは'70年代前半でしたか。

母校の中学校には三管式プロジェクターがありましたが、
'80年代以降(後半かな?)の製品で暗いということはありませんでした。
リアプロジェクションテレビも'80年代前半のものがありましたが、
これは使われているのを見たことがありません。

> やけにドアップが多いと感じませんか?

確かに。ざーっとズームアップするカットがよくあったりとか。
画面サイズのほか、解像度の問題もあったんでしょうね。

> 画面を大きく見える樹脂板

商品名としては「ゴールデンコール」とか
「ステロワイダー」といったものがあったそうですが、
テレビ画面の枠にはめ込んだり引っ掛けたりするものと、
L字型の2本の支柱と支柱を差し込む専用テレビ台が
セットになっていて、支柱を台へ差し込む深さで
拡大率を変えられるものがあったそうですね。
拡大レンズではありませんが、虹色のフィルターをかけて
「ほら、カラーテレビみたいでしょ?」というものもあったそうですね(笑)。

拡大鏡を使う発想の商品は今でもあって、拡大鏡付きの
スマホスタンド(レトロテレビがモチーフのデザインなので元ネタが
コレなんでしょうね)やテレビ視聴に使えるメガネ型ルーペがあるそうです。
1995年には、拡大鏡を組み込んだ液晶テレビの特許も
取られていたようです(四角いフードが伸縮するもの)。
2018/07/13(金) 21:37:15 | URL | くろねき
0011ソロ様 くろねき様 勉強させて頂きました。
拝啓 よろしくお願いいたします。
0011ソロ様よりのご指摘の件、早速例の馬鹿親父の施設や親父兄貴に急遽確認をいたしました。何せ「半ボケもとんでもねぇ年寄りばっか」なので確認には苦労しましたが、「そんなよおーっ50年も前の話なんかよーっ 覚えてねぇよーつーっ」「ふざけんじゃあ無ぇっ 馬鹿親父の馬鹿息子の顔が立つかどうかの瀬戸際だわ、冥土の土産に思い出さんかっこのーっ」と。やはり当時、ちっこいTVの前に置いていたのは「レンズでは無くて、何かプラスティック?アクリル?の様な出っ張った=早い話凸レンズ型に太らせた物」だった様です。ご指摘の通り「センター付近は何とか見られても周囲の四隅は歪む」と。この原理の応用が、実は「映画のオプティカルプリンター登場以前に工夫されていたと言われる、エリアルイメージ合成機」なのですね。馬鹿高価なオプティカルプリンターが入れられない小さな貧乏会社には随分重宝されたと聞きます。
現在でも自分が使っている「テレシネ機=エリアルイメージ方式」がそうですが、余程上手くやらないと四隅にゆがみやケラレが出ます。
また当時の白黒ドラマのアップが多いってぇご指摘は「ハッ」としました。確かな確証は現在解りませんが、製作者サイドとしては当然解っていたことでしょうね。鋭いご指摘でした。

テレビ屋と言う商売は「ソフトを創る側もハードを造る側」も、最終目標は映画だったと聞き及びます。つまり何時の日か映画館の様に大画面でテレビを観る日が来ると。最もこんな妄想能書きは初めっからそもそもおかしくて、全く別物であるという認識が欠けていましたね。だからこそ「似非映画体験とか何だか」言っては変な物=プロジェクター等を駄目と知ってて売り出したりと。元々「極めてプライベートカラーの強いテレビジョン」と「高い料金払って現地に行き、時間厳守の中で他人様と時間を共有するのが映画」なのですから根本的に異なるはずです。これは現在でも解ってない者達が多いのは情け無いです。

「NHKの国産品崇拝」=これは、当初は国の政策の一環としていわばNHKを隠れ蓑として行われていた行為であり正直その間、確かに国産品は急激な進化を遂げた事は確かだし認めましょう。正直自分は、何も一切合財国賊非国民売国奴の反日と揶揄するわけでは無い。大切な事は「過去の好例はそれとして、時代と共に時間と共に刻々と変化していくのが世界の潮流」としたら、かつて「ソクラテス先生が言われた=形あるものは全て壊れる」と言うのは全てに当てはまります。ベートーヴェンの音楽であろうと、今後未来永劫に生き残れるか?は不明な今日、特に日本には「特におかしな、国外つまりトランスグローバル=全地球的 に観ても存在が怪しい組織?があまりに多い。その典型がNHKです。既に何処の国でも公共放送なんてぇ時代遅れの異物は消え去るのみなのに、国鉄郵政はとうに民営化され水道事業までも民営化される昨今、何時までもこうした歪な形での組織防衛が許されるはずも無い。過去は過去、現在は現在 ましてや国の庇護の下に堂々と反日する等まぁおっ死んでから地獄の奥までは、誰も行きたく無いですからねぇNHKさんよぉっ。

「力道山さんについて 生涯忘れられぬ言葉」=元々このスレッドは力道山さんのお話でしたから、少しは此処を書きませんと。自分がこのごいんきょ様の別スレッドでも書かせて頂きましたが、小学生の頃立ち読みした漫画「ジャイアント台風」 この中で、ジャイアント馬場選手が、力道山さんについていみじくも語っていた言葉は
「自分の師匠力道山は、決して苦労話をしなかった。何故なら、苦労話も自慢話と」 当時小学生だった自分はこの話に強烈な印象を持ち、生涯忘れられぬ人生の指針となりました。
人生の一部を確かに教えてもらったのです。「力道山選手って偉い人なんだ」と。こういう人って現在いませんねぇ。思えば力道山選手ってぇ正直な人だったと思います。  敬具
2018/07/14(土) 10:04:21 | URL | よしたかくん
【よしたかくん】さん...........詳しい~~~~~~~~~~(^o^)
たまにごいんきょさんのブログのスレでお見かけする【よしたかくん】さん..........ずいぶんお詳しい解説をなさいますね!!関心しちゃった(^^;)
2018/07/16(月) 09:02:09 | URL | マスダっち1971
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