私的 昭和テレビ大全集
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茶道教室 (1959)

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只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版ライト 巻之弐』発売を記念し、
昭和三十年代の番組を特集しております。
その誌面で扱った番組に限らず、今ではあまり振り返られなくなってしまった、
テレビ黄金時代の幕開けを飾る、輝ける昭和30年代を、広く振り返ろうと思います。

この時代の番組実見談を語れる人は、ネット上では非常なる少数派です。
それがため、本当にテレビが熱気を持っていた時代の番組、
出演者に関する記述・記憶が、現今の劣化番組の情報再生産も有り、
どんどん掻き消されていってしまっております。
ぜひ奮って、皆さんのご記憶をお聞かせ下さい。
皆さんが楽しんだご記憶を、歴史の片隅に、ぜひ積み重ねて戴きたいと思います。

コメント欄も含め、全ての文責は当ブログ設置者が請け負っております。
どうか深く考えず、お気楽に書いてみて下さい。
記憶違い、不確かな話、今では表現規制されるような話、
昭和のテレビに関する話であれば、ここは、ほぼなんでも受け付けております。
往時を知る方の、一人でも多くのコメントでのご参加をお待ちしております。
今回は、読売テレビの発足と民放教養番組を振り返る、この番組です。






ほとんど設置者の思い入れだけでひたすら続けている「昭和30年代特集」も、
漸くとそろそろ切り上げ時が近づいて参りました。
関東人たるワタクシではなかなか他地方のローカル番組を扱えないのが、
本特集に限らぬこのブログでの弱点の一つであり、気に掛かっている点では有りますが、
その辺は、これだけネット人口も増えているのですから、
きっと他の人々がやってくれるだろうと信じていくしか有りません。
とは言えワタクシも、文献を漁って判った事だけは、
機会が有る毎にご紹介していこうとは思っております。

そこで残り少ない本特集でも、せめて関西のテレビに関しても触れようと思います。
今回は読売テレビを語る触媒として、ちょっと風変わりな『茶道教室』を選んでみました。
茶道教室? そんなもの、NHK教育テレビならいざ知らず、読売テレビでやっていたの?
というのが今日的な見方でありましょう。
しかしながら読売テレビは、開局当初は準教育局だったのでありました。
当時はテレビへの風当たりが強く、しかも新しい巨大利権となったテレビ放送に
様々な企業体が蟻のように群がり始め、我も我もと申請してくる。
これを捌く大義名分として、電波は公共のものであり、放送にも公共性が求められる
という、お題目だけは至極まっとうな言辞が弄されたのです。

それがため、新規に開局する所には教育局という枷を嵌められる所が非常に多かった。
新聞販売で関西に参入したばかりだった読売は、関東と同様、勿論もっと早い時期から
テレビ放送局を持とうとはしていたものの、テレビ免許第一号獲得を目指した時の
猛烈かつ半ば強引な手法があちらこちらで軋轢を生み、官僚にも警戒されたのです。
しかしそれ以上に、読売参入前から関西の新聞販売、そして民間ラジオ放送で、
激烈な争奪戦を繰り広げてきた不倶戴天のはずの朝日と毎日が、
テレビ単独免許を獲得して勢いづく新興・読売という新たな敵を前にして、
手を握るという必殺のウルトラCを放ったのでした。
昭和31年、朝日・毎日両者による関西民放第一号の大阪テレビ開局。

後れを取った読売は、その後も懸命な工作を行うものの、やはり各所の警戒は並でなく、
焦らしに焦らされたあげく、関西テレビにも先を越され、
若き実力者・田中角栄が郵政大臣になるまで話が具現化しませんでした。
角栄就任当初も、該当チャンネルが無いという事で消極的だったのを、
読売が独自調査で、10チャンネルも電波干渉は有れど軽微で使用可能と報告。
これを受けてようやく免許されたものの、電波干渉が多少懸念され、
しかも、6チャンネルまでしか映らない受像器も多かった当時の10チャンネルに甘んじました。
更に輪を掛けて、準教育局という枷まで嵌められてしまったのです。

これには角栄に抗議したものの、これから各局とも準教育局のレベルにするので
なんとか受けてくれと言われては、当座は我慢するしか有りませんでした。
その言葉に嘘は無く、大阪テレビから独立して単独で同時に免許された毎日放送も準教育局。
両局とも、この縛りのために開局当初は非常に苦労する事となるのですが。
因みに、IT業界という新たな巨大産業が放送電波を狙った時も、
電波は公共のものというお題目だけがまた唱えられましたが、
それで放送内容が公共に資するものと心掛けられるようになったかと言えば、
まっっっったくそんな兆しすらも無いまま腐り続けておりますが。

関東の日本テレビ開局5周年となる、昭和33年8月28日の開局が、
正力松太郎御大による至上命令として下されたのです。
設立当初は、読売への他者との軋轢を気に懸けてでしょう、「新大阪テレビ」と呼称され、
略称の「NOTV」から「ノーテレ」と呼ばれて、社員も嫌な感じだったようですが(笑)。
土地取得からわずか1年4ヶ月で本放送に漕ぎ着けると関係者が説明しても、
官僚からアメリカ放送関係者から、誰一人本気にしなかったようですが、
昼夜風雨を厭わぬ執念の突貫工事で、御大命令は成し遂げられたのでした。

更に本放送開始直前になって、これも唐突な「読売テレビ」への改称。
カメラその他に入れられている「NOTV」や「新大阪テレビ」の文字を、
「YTV」「読売テレビ」に書き換えなければならず、これもかなり苦労したようです。
さてさて、読売テレビの成り立ち解説が長くなりましたが、
そんな訳で準教育局となった当初は、名前に恥じぬ教育・教養番組が目白押し。
そして、子供を対象にした教育番組を昼の11時台に作っても、
学校でテレビを設置している所は少ないし、ほとんど誰にも見られないと気付き、
一年と経たない昭和34年6月に、大人向け教養講座が大きく番組表を占める事となりました。

月曜から土曜まで、毎日11時15分からの10分間、村山リウによる『源氏物語』解説。
10分とは言え毎日の放送で、14ヶ月も続く長編となりました。
続く11時25分からの30分は曜日替わりで、月曜『社会科教室』、
火曜『芸術教室』『絵画教室』、水曜『生物教室』、木曜『俳句教室』、
金曜『いけ花教室』、土曜『茶道教室』という布陣でした。
村山リウもそうですが、講師がまた凄い顔触れで、『芸術教室』は富本憲吉、
『絵画教室』は小磯良平、『俳句教室』は橋本多佳子に山口誓子という、その道の至宝。
こんな民放の時間帯、今では本当に考えられない(苦笑)。

橋本多佳子は、普及し始めのマジックインキを使い慣れず、キーキーと音が軋んでしまった。
すると視聴者から、丁寧な手紙とマジック筆が贈られたといいます。
小磯良平が残したスタジオスケッチは、しばらく局内サブコンに飾られていたようです。
いけ花教室は池坊でしたが、家元・専永ではなく、各地方のお師匠が出ました。
中で最初に始まったのが『茶道教室』で、これには当然、
当の茶道界からは反発も有りました。
神聖なお師匠のお手前を、機械を通して大衆の前に晒すのは忍び難いというのです。
勿論、タダで電波で流されたら商売に差し障るという実利面の懸念も有ったでしょう。

しかし、当時はまだ表千家より軽めで、その分、新しい事にも柔軟だった裏千家に頼み、
後に十五世家元となる千宗興が講師となるのでした。
教育番組としては稀少な提供会社として、宇部興産が当初から付きました。
月に一回は名園名庭、茶道ゆかりの場所で野外中継をし、
本願寺、西大寺、桜の大阪城など、技術が拙い当時はかなり苦労したようですが。
びわ湖ホテル庭園から中継の時は、折悪しく台風で、茶杓も茶筅も吹き飛び、
麗人たちの着物も帯もズブ濡れになってしまったという事です。
生放送時代ですから、おいそれと番組の差し替えが出来なかったのでしょうね。

千宗興本人はテレビ放送にかなり迷っていたようですが、
テレビと結び付く事が裏千家の発展にプラスになるという母親の判断を受け入れ、決断。
その後の裏千家の隆盛を見れば、こうした判断は正解だったのでしょう。
当時の家元の娘である塩月弥栄子も、テレビとは非常に関わりが深かったですね。
NHK『私の秘密』の回答者として顔と名前を売り、
『冠婚葬祭入門』が半端ではなく売れまくり、社会現象にまで。
それはTVドラマ化もされておりました。

こうして裏千家と読売がやや結び付いたとも言えるのですが、
それに他の流派が危機感を持ったのか、はたまた正力松太郎の配慮なのか、
昭和36年頃から、五流派の家元が、茶道の大衆化を図るとして、
正力松太郎の招きに応じて一同に伍し、意見を出し合うという会合が設けられました。
五流派とは、表千家、裏千家、武者小路千家の三千家と、江戸千家、更に遠州流。
これらの家元が直々に会合を持ったというのも凄い事ですが、
これは読売主催の「五流大茶会」として結実しました。
日本も高度成長で生活に余裕が出始め、然し乍ら当時は女性の社会進出も進んでおらず、
そうした余力は花嫁修業へと向けられ、このような習い事が活況を帯びた時期でした。

うーむ、女性登用のお題目だけは高らかな安倍新人事と少し絡んだ記事になったな(笑)。
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コメント
この記事へ寄せられたコメント
いまの民放じゃ
 凄いラインナップ。今の民放じゃ考えられませんね。
 ちなみによみうりの教養番組、同じ準教育局のSTVでもお世話になったようです。
 NETの学校向け番組がHBCに移り、日テレやよみうりの教養番組、岩波の教育映画の放送、フジの英会話番組や自社制作番組で埋めていたそうです。
 ちなみに「テレビとともにやせましょう」という体操番組もよみうりテレビ制作だとか。
 ところで、教育テレビの番組で、研ナオコさんが紙テープでバッグを黙々と作っている姿がシュールだったとネットで話題になりました。
 司会者も機転が利かない人だったらしく、ゲストの中山エミリさんがオロオロしながらも一生懸命2人をフォローしていた、というエピソード(?)もあったとか。
2014/09/17(水) 00:15:47 | URL | 北国の人
ねえ。富本憲吉さんだの小磯良平さんだのが、
金にもならない教育番組をやっていたというのもいいですし。

北海道の放送事情って、あまり詳しく調べてる人いないでしょうから、
北国さんあたりがどこかで発表してくれると便利そうですね。

ナオコさんの話は知りませんし、興味も無いです。
NHKも腐っているという切り捨てで大丈夫ですか?(笑)
2014/09/17(水) 20:33:25 | URL | ごいんきょ
読売テレビが開局を急いだのは
読売テレビが開局を急いだ、又、付け加えると開局直前にわざわざ「読売」テレビと改名したのは、関西第2局となる事で、日本テレビフルネットの体制を築きやすくするのも大きかったかと思います。
大阪テレビはニュースについては読売色の強いNTVを完全に避けて、KRT一本でしたけど、その他の番組はNTV・KRTクロスネットでNTVとの関係も悪くなかった様ですし、一方、毎日放送サイドのKRT並びにスポンサー筋への猛烈な営業攻勢で、KRTも大阪テレビにネットされていない番組を主に、最低でも半分以上は毎日放送向けに送る事を口約束したとの話もあり、下手すれば、大阪テレビ(朝日放送)=NTV系、毎日放送=KRT系で固まりかねない状況ではありましたのでね・・・・、実際、後のU局開局ラッシュの際の他地方のテレビではその手の捩れが多く見受けられましたし。

結局、新大阪テレビ改め読売テレビが日本テレビの番組しかネットしない事を宣言の上で、関西第2局として開局した(言わば押しかけ女房の様な格好………、それがNTVが大正力が亡くなる頃まで、読売テレビを邪険に扱った一因の様にも)事で、NTV番組が消えて窮地に陥った大阪テレビ(朝日放送)の必死の巻き返しで、消えたNTV番組枠の大部分をKRT番組で穴埋めする形でKRTフルネット局となった(但し、全てがすんなり言った訳では無く、一部は「部長刑事」の様に自主制作番組で穴埋めした)事で、毎日放送はその後、
フジテレビとの交渉(関西テレビ親会社の産経新聞が開局前の日本教育テレビの株主となっていた為)
→産経新聞がフジ関係者に売却されて、フジテレビ-関西テレビの関係が確立した為、頓挫
を経て、残りクジの日本教育テレビとしぶしぶネットを結ぶ事となった訳ですけどね。
2014/09/19(金) 23:10:56 | URL | TXの無いテレビなんて・・・
おそらく、「読売テレビ」とする事は、ごく一部では織り込み済みだったと思うんですよね。
しかし各所の読売アレルギー、特に官僚なのかな(笑)、
それが強烈で、本当にギリギリまで、可能な限り出しゃばらないようにしていたという事なんだろうと思いますけど。
正力さんと務台さんの関係も掴みづらいし、読売テレビと日本テレビの関係については、
まだまだ色々読んでみる必要が有りそうな。
ただ、「販売の務台」が日テレでも天皇のようになって、
井原高忠さんとか嫌になって出て行ったのだと思いますけど。
2014/09/23(火) 23:14:05 | URL | ごいんきょ
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