私的 昭和テレビ大全集
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ポップス・コンサート (1967)

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昭和37年、読売新聞、日本テレビ、読売テレビの三社連名で、
読売日本交響楽団の結成が高らかに告知されました。
読売が、と言うより当時としましては正力松太郎がと言うべきでしょうが、
オーケストラを持とうと考えたのには、前年にオペラを招聘したものの、
楽団にフジ・産経系列の日本フィルを借り受けねばならず、それが屈辱的だった
という話も有りますが、きっとそんなとこでしょう(笑)。
なにしろ、やはりフジ産経の色濃い東京タワーに対抗して、
正力タワー構想までぶち上げた人ですからね。
似たような親米右派の立ち位置から対抗意識が強かったのでしょうか。
尤も、楽団という事に関しましては、フジ産経以上に日テレが対抗意識を燃やした
NHKにも存在しているという事も、正力が決断した大きな要因でしょう。

経緯はどうあれ、新聞社による楽団保持は世界でも類例が無いのが自慢で、
この少し後に東京都が楽団構想を打ち上げた際には、商売敵を潰そうという事でしょうが、
読売新聞紙上で大々的な反都響構想の論陣が展開されました。
新聞は決して「公器」ではありませんので、情報取得には非常に注意を要します。
ま、本当に新聞が「公器」になったら、注意を要するとかいう次元を超えてますけどね。
だから、いろんな立ち位置の新聞が存在するというのは健全な事です。
きちんとした取材に基づく記事であれば、ワタクシは朝日どころか赤旗すら支持するくらいで。
そうして、日本テレビ系列でもぼちぼちと楽団演奏番組が放送されるようになり、
文化的な意義は増えていたと思いますので、これは結果的に結構な事だったと思います。

さて、放送文化に大きく関わった日本の誇るクラッシック音楽家としまして、
芥川也寸志、黛敏郎、團伊玖磨を挙げる事が出来ます。
この三者は、「三人の会」というものを結成していた事もある同志。
中で最も早くテレビ番組を持ったのが、既述『題名のない音楽会』の黛敏郎でした。
彼のクラッシックを大衆化するという大義は、他の二人にも持たれていたようです。
昭和42年1月28日には、團伊玖磨による音楽番組、『だんいくまポップス・コンサート』が、
日本テレビ土曜夕方5時から始まったのでした。
更に芥川也寸志もTBSで『コンサート・コンサート』を始めるに及び、
昭和40年代前半は、この手の音楽番組が花盛りといった感じになりました。

さて、この『だんいくまポップス・コンサート』ですが、「ポップス」とわざわざ断っているのは、
決してクラッシック・コンサートではないから。
演奏をするのは勿論、フル編成の読売日本交響楽団で、それを團伊玖磨が指揮するという、
土曜夕方5時からの30分番組として考えたら、なんと豪華な番組なのだと、
今にしてつくづく思いますけどね。いや、今となっては、どんな時間帯でも有り得ませんか。
本当に、真の価値というものを見極めるのには目が養われていないとならない。
子供の頃は、とてもそんなに貴重な番組だなどとは思いもしていなかったですもの。
けれども、理屈や事情が解らずとも、子供の頃に涵養される知識・見識は大事で、
この番組を見ていた人たちは、きっときちんとした大人になっていると思うんですよね。
ワタクシは見ておりませんでしたが(苦笑)。

團伊玖磨は随筆「パイプのけむり」でも名が知られるように、
様々な交流と面白い知見を豊富に持っているため、毎回の特別出演者も多彩。
美濃部亮吉、石田博英、藤山愛一郎といった政治家から、
デビ・スカルノなどという社交界の人間、作家、もちろん芸能人と幅広かった。
これら招待客と團との語らいも大きな部位の一つでしたが、
やはり本命は、読響による演奏と、その内容。
流行歌、軽音楽、果ては民謡までこなすに至っては、「ポップス」という括りすら
意味を成さなくなっているだろうと(笑)。
この辺は、先行者である『題名のない音楽会』を踏襲したとも言えましょう。
件の三者が意識していたのは、クラッシック音楽の固い壁をいかに崩すかでした。

10月から早くも放送時間が日曜の午前へと移動しておりまして、
この手の番組の存続基盤が非常に脆い事を窺わせております。
尤も、提供会社は一貫して東京ガスでしたので、そちらの問題は無かったのですが。
この手の番組は人気が高くなるという事はまず望めませんので、
必然、提供会社も営利目的ではない企業が多くなります。
ただ、人気が無いためにどうしても編成上のお荷物といった感じになり、
あちこち時間が移り変わる例が多いのですね。
昭和44年の秋からは、更に時間が同じ日曜ながら夜10時半へと以降になりました。
こうなると、日曜午前とは内容も大きく替えなければなりません。
ここからは、夜向きの落ち着いて鑑賞できる内容へとなったのです。

しかし、この番組の大きな意義の一つに、子供たちも見られる、
子供の頃から音楽性を涵養するというものが有ったはず。
だからでしょうが、翌45年4月には日曜朝8時半になったものの、
更に7月からは土曜夕方6時、10月からは土曜朝9時半へと千変万化(笑)。
どうしても視聴率が低い番組なので、編成で空いた枠に追いやられていたのでしょうが、
流石に東京ガスも愛想を尽かしたのか?、ここから提供無しのスポット枠となりました。
提供無しでも昭和47年まで、2年半ほどは続いていたんですね。
視聴率が3%前後と、民放番組としては絶望的に低かったのにこれだけ愛されたのには、
根強いファン層がいたからというのが非常に大きかったのです。

昭和42年12月24日には、ディック・ミネが出演。
既にかなりの経歴となっていた活動を振り返り、
懐かしのタンゴ「奥さまお手をどうぞ」を披露しました。
昭和43年2月18日の特別出演は、作家の森村桂。
この番組の構成作家である城悠輔は、なんとか彼女に歌って欲しかった。
しかし、旦那から「なんでも買ってやるから人前では歌わないでくれ」と言われた
彼女、頑として城の要望を聞き入れない。
そこで逆手にとって、「なんでも買いますから歌って下さい」とお願いしたら、
放送ギリギリで承諾してくれたというのですね(笑)。
彼女が歌ったのは、自作の「オフィサーの歌」とかいう珍曲と称されるもの(笑)。
そして彼女がおねだりしたのは、カステラだったという事です。

昭和45年5月31日放送では、西条八十が大正十五年に発表した「巴里小曲集」から、
團伊玖磨が新たに作曲したという未発表曲をテレビ初演するという凄い試み。
間に入るダーク・ダックスの朗読も團が書いた文章で、
おまけにこの回に関しては、構成も團自らが行ったという、一際入魂の回でした。
6月28日放送では、裏方である読響のライブラリアン(楽譜係)を紹介。
この仕事が素人には想像の出来ない大変さで、一口に楽譜と言っても様々な版が有り、
指揮者が指定した版で海外にしか無いものも有り、
そういう場合には数多くの外国語もこなさなければならない。
手書きで写譜する場合には、30分曲全パートだと一ヶ月かかっていた大仕事でした。
この番組では、他にも歌舞伎の大道具、小道具係や新幹線車掌など、
裏方仕事の人もよく招きました。
全員一丸とならなければ仕事を為し得ない、指揮者としての視点がそこに有るのでしょう。

初期の頃からほとんど毎回欠かさず収録を見に来る人が多いと報じられましたが、
目が不自由で、この番組で團ファンとなり、團作品の点訳をしていた女性もその一人。
昭和45年年末には、二週に渡って200回記念の番組を放送し、
一週目には、その女性を始め、この番組の常連観客4名を招待ました。
聴衆までも自分達と同じ壇上に引き上げる團の姿勢には、見るべきものが有ります。
二週目では、番組主題曲として使われていた、昭和25年に團伊玖磨が作曲した
「花の街」を、花の有る世となった時代に合わせた新しいものにするべく、
同じ江間章子の作詞した新曲を、彼女の前でお披露目しました。
今この世に改めて考えるに、本当に物凄い番組だったと思います。

大勢が同じ歌や踊りを楽しむのも良いでしょう。
でも、多様性が確保されないと、何か、非常に大事な何かが、
いつの間にか失われているような気がします。
オーケストラのように、それぞれが違った事をやりながら、
美しく調和されているという姿が、ワタクシの昔からの理想なんですよね。歌で言えば和声。
それは勿論、芸術や娯楽に止まらず、思想・活動に於いても。
だから偏狭なグローバリズム、世界画一化勢力には終生抗い続けるでしょうし、
金太郎飴化したテレビにも毒を吐き続けるでしょう。無駄は百も承知で。
それが、こうした番組の有った多様性の有るテレビ時代を過ごさせて貰った者の、
せめてもの義理だと思うので。
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この記事へ寄せられたコメント
読響名曲シリーズ
私が初めてオーケストラの演奏会に行ったのは、昭和45年の読響の名曲シリーズでした。
モーツァルトの交響曲39.40.41番を若杉弘氏、山岡重信氏、飯守泰次郎氏がそれぞれ指揮をするという贅沢で楽しい演奏会でした。

黛さんの「題名のない音楽会」、芥川さんの「音楽の広場」やTBSラジオの「百万人の音楽」は聴いていた記憶があるのですが、「だんいくまポップスコンサート」は時々観ていたはずなのに、あまり記憶がありません。
「花の街」を会場のお客さんが皆で歌っていたような印象があります。
團伊玖磨さんと多彩なゲストの皆さんのお話を今聴いてみたいです。
2014/10/06(月) 00:05:39 | URL | モデラート
おや。モデラートさんならきっとご覧だったろうと思いましたが。
昭和45年なら、この番組も末期という頃合いですが、まだやっておりましたしね。

『花の街』は毎回歌っていたんでしょうかね。
主題歌として使われていたのは確かなようですが。
2014/10/06(月) 07:29:05 | URL | ごいんきょ
東京ガス提供番組だったとは(^◇^;)
「だん いくまポップス・コンサート」ですか。提供が東京ガスだったんすね。番組内での当時の東京ガスのCMはどんなのが流れていたんだろうね。まだ【☆にG】のマークと、東京ガスの旧ロゴが全盛だったからね。

2014/10/06(月) 11:33:06 | URL | マスダっち1971
多分、お堅い案内調のCMばかりだったと思うので、
見ていた人の印象にも残ってないかと思いますね。
2014/10/06(月) 22:41:45 | URL | ごいんきょ
公録を観に行ったことがあります
と言っても、私ではなく母がですが。確か、スポンサーからの招待だったと思います。
こんな事を書けば、また「さすが育ちが違う」と言われそうですが、私の親は決してクラシック一辺倒だったわけではありません。実は歌謡曲も結構好きなほうでした。
ただ、レコードとして手元に置いておくには、流行り廃りの激しいものよりも、いつの時代にも価値が揺らぐことのない音楽のほうがいいと思っていただけです。
そうした価値観は私にも確かに受け継がれているようです。常に流行には注目したいと思う反面、その流行に押し流されるのは善しとしないところがありますから。

参照URL
http://blogs.yahoo.co.jp/xmqbk533/31723833.html
2014/10/07(火) 00:29:39 | URL | うみがめ
クラッシックを嗜み、流行歌も愛す。
理想じゃないですか。

流行り廃りもまた、きちんと記録しておけば別価値が出てきますがね。
お父さんが秋編めたSP盤も、実はそうした発行枚数が少なくなってからの物は異常に稀少となっていたはずですし、
LP盤でもドーナツ盤でも、CD移行期の物は枚数が少なくて、今では希少価値から値段が高かったりします。
2014/10/07(火) 07:04:32 | URL | ごいんきょ
うみがめさんのオカン、公録に行ったんすか!!
エ!?うみがめさんのオカン、「だん いくまポップス・コンサート」の公録に行かれたんすか!!東京ガスの招待で!?すごい(^◇^;)
2014/10/07(火) 10:11:11 | URL | マスダっち1971
多分、読売会館のTVホールに見に行かれたんだと思いますよ。
この番組は競争率も高くなかったでしょうから、行けばほぼ必ず見られたんだと思います。
だから、ほとんど全回見ている人とかがいたんですね。
2014/10/08(水) 06:48:09 | URL | ごいんきょ
ディレクターから
だんいくまポップス・コンサートのディレクターだった宮島将郎です。
記事を拝見して、番組を作っていた時のいろいろな出来事や團さんの個人的なエピソードを思い出しました。
番組を褒めてくださり嬉しく思います。
ありがとうございました。
2016/01/29(金) 08:01:43 | URL | 宮島将郎
良い物は失ってからわかるんですよね、凡愚には。
ワタクシは年行って、今になってようやく鍵盤と向き合う好奇心を持てておりますが、
そうでなくとも、テレビがここまで腐ってしまうと、こういう番組を民放がやっていたという事が、なんと貴重だったのかと痛感します。
2016/02/11(木) 22:13:05 | URL | ごいんきょ
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