私的 昭和テレビ大全集
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スターと飛び出せ歌合戦 (1968)

該当番組画像募集


テレビの本格カラー化は、巷間「東京オリンピック」を契機に進んだように書かれますが、
嘘とまでは言いませんけど、あまり言い当ててはいません。
それよりも、「大阪万博」を契機に進んだと考えた方が、実情に即しております。
尤も、テレビ番組として万博はオリンピック程は貢献してはいないのですが、
昭和45、46年に番組のほぼ全面カラー化が実現しているというのは事実です。
しかも、後発のフジテレビ、NET、東京12チャンネルといった所は、
特にカラー対応が遅れており、NETなどはカラー放送開始自体が昭和42年。
とても東京オリンピックをもってテレビのカラー化が進んだとは言えないでしょう。
記憶としても、昭和40年代前半まで、周辺でカラー映像を見た記憶が有りません。

しかし、昭和も万博を控えた43年頃になると、急速にカラーテレビが身近になります。
なにしろ、それほど裕福ではない、と言うかむしろ貧しかった(笑)、
8畳一間に住む我が家にも、昭和43年にはカラーテレビが入りました。
なぜ断言できるかというと、お下がりになった白黒テレビで『サイボーグ009』を見たからです。
その頃、日立がキドカラーの宣伝で飛行船を飛ばして話題になり、
ワタクシも見た気がしますし、我が家に来たのも日立キドカラーでした。
あの飛行船宣伝の効果は、かなり大なるものが有ったかと思います。
ネット上でも、最初のカラーテレビはキドカラーという人が多いように感じますね。

身近な媒体であるテレビの存在は、そこに映る数々の事象の存在を卑近なものと錯覚させました。
いや、銀幕に映っていたものが特殊な世界と考えていた方が実は錯覚だったのでしょうが、
こと見世物という観点からのみ考えれば、テレビは全てを卑近な物としてしまったのです。
そしてそれは、カラー化により拍車が掛かりました。
カラー化、すなわちテレビで見える世界と現実世界の差異が減少し、
身近なテレビの小さな画面の中に映る物の存在は、
お金を払って巨大な銀幕で見た存在と違い、遠く離れた感覚ではなくなっていきます。
天に瞬く「スター」という言葉は、今や自虐や揶揄の対象とまでなる言葉に成り下がりました。

そんなカラー時代を迎えて、かつての人気番組『アベック歌合戦』が衣替えしたのが、
今回の『スターと飛び出せ歌合戦』です。
司会のトニー谷は替わらず、彼がソロバンや拍子木を用いて、
会場や出場者に語りかける形式そのものは、やはり踏襲されてはおります。
最大の変更点は、その名の通り、一般人がスターと飛び出してくる事に有りました。
舞台中央に設えられた二列の滑り台から、二人が並んで滑り降りてきて、
そのスターの持ち歌や、他の歌を一緒に歌うという、かつては考えられない夢の番組。
カラー化を意識してかせずか、おそらく無意識意識によるのでしょうが、
スターという言葉が卑近になり始めた最初の頃合いと言えましょう。

この時、たしか二人が手を繋ぎながら滑り降りてきた気がしますが。
正面向いた滑り台を女性芸能人が降りてくると聞いて、
ワタクシとは別種の下卑た男連中は、きっと有らぬ妄想が広がっている事でしょう。
下に降りてきた時に、スカートの中が見えてしまうのではないか。
でも残念でした! 下卑た男どもよ。
そんな君らの不埒な考えは、淑女の皆様方にはお見通しなのだから、
ほとんどの出演者は、スラックスを履いて登場していたのでした~。
本当に残念だろう、君らは。本当に残念に違いない。我が事のようによく解るよ(笑)。

しかし、二年余の放送の中には猛者もいて、山本リンダ、由美かおる、東山明美
なんてとこは、ミニスカートで滑り台を降りたというのですな。
そら下卑た君らもカラーテレビで見たくなるいうもんや!
下卑た話になると関西弁になるのは鶴光から始まる関西芸人の影響なんや(笑)。
本当に、神という存在がもしいるのなら、それはきっと悪戯者。
ミニスカート元年と呼ぶべき昭和42年は、テレビのカラー化に拍車がかかり始めた頃。
新しいマス文化が市民権を獲得していく裏には、概ねエロが絡むという私論に基づけば、
カラーテレビの普及とミニスカート普及には、きっと切り離せぬ関連性が有るに違いなくもない。

カワイコぶった女性出演者の中には、尻餅をついてしまう者も多く、
特にファンの人からなんでしょうが、苦情も有りました。
が、概ねそうした姿は愛嬌として見られていたように思います。
番組終了の際には、前作『アベック歌合戦』以来8年この枠で活躍した3名、
司会のトニー谷、審査員のディック・ミネ、アコーディオンの齋藤正雄に対し、
当時の読売テレビ代表取締役より感謝状、記念カップ、ヨーロッパ旅行が贈られました。
この時トニーは、もうテレビではソロバンと拍子木を使わないと宣言。
なにかに呼ばれて出た時はともかく、司会としては使わなくなったかと思います。
主たる提供は、『アベック歌合戦』末期からのエベレストヂャーでした。
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奥村チヨさん
夏休みにプールサイドで公開放送していたことがあったと思います。
覚えているのは、奥村チヨさん。
ビキニスタイルで一般の男性と手を繋いで出ていらしたと思います。
その日は家族みんなで観ていたのですが、我が家では奥村チヨさんといえば、「ごめんね・・ジロー」を歌った清楚で華奢な女の子というイメージがありました。
私は心の中で、(わぁ、水着で歌うんだぁ)とちょっとびっくりしていたのですが、
母が突然「奥村チヨちゃんって、グラマーなのねぇ!」と叫んだのです。
その時何故だか、凄く恥ずかしくて直視できなくなりました。
父も弟もいたからかもしれません(笑)。

ごいんきょさん、MIDIブログを紹介してくださってありがとうございます。
ボチボチ作っていきます。
2014/10/13(月) 18:02:22 | URL | モデラート
プール
この番組はプールサイドからの中継録画は恒例で、
初期だとあべのプール、箕面スパーガーデンのプール
後期は長島温泉の室内プール、吹田市民プールの屋内温水プール
での収録がありました
特徴としてはスパーガーデン以外はすべて室内プールでの収録だったということです

奥村チヨさんはこの番組はおそらく1回だけしか出ていません
「青い月夜」を売り出していたころの1968年7月8日、あべのプールで収録された回だけと思われます
その回のほかの出演者は荒木一郎、青山ミチ、団次郎、飯野矢住代でした
2014/10/14(火) 00:50:28 | URL | 鳥飼
● モデラートさん
プールでの収録は覚えてませんが、歌手に水着姿を強要するようになる始めですかねえ。
やはり手を繋いでましたよね。
チヨさん、意外にと言うか、脱ぐと凄いんです型ですよね(笑)。
いしだあゆみさんと双璧。

モデラートさんの潜在力は、まだまだこんなものではないでしょうね。
楽しみにしております。


● 鳥飼さん
へえ。でも日テレって、プール撮影好きでしたよね。
今晩は裕次郎ですあたりから始まって、紅白歌のベストテンなんかでも恒例だったな。
おお。モデラートさんが見た日がわかったじゃないですか(笑)。
2014/10/15(水) 07:15:45 | URL | ごいんきょ
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