私的 昭和テレビ大全集
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ペギーに逢いましょう (1959)

ペギーに逢いましょう


只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版』&『ライト版』発売を記念し、
TBS金曜夜の番組、及び、子供向バラエティ・教育番組を織り交ぜて特集しております。
今回は、テレビがまだ夢の箱であった頃の、この番組です。


昭和33年、日本のバラエティ番組の始祖とも言える、『光子の窓』放送開始。
歌あり踊りあり、そして軽い笑いありの、このショー番組の登場は、
本格志向の歌手達に憧憬を与えました。
その一人に、ペギー葉山がおりました。
ペギー葉山。
文化放送開局番組にも参加している、この芸能界の生き字引のような存在は、
テレビ創生期には既に一流歌手であり、昭和33年にはミュージカルで芸術祭受賞。
この、日本のミュージカルの開祖とも言うべき存在は、
『光子の窓』を見て、当然、羨望の眼差しを向けていたのです。

そんな時、時のKRテレビから話が来たのがこの番組で、
彼女は、「天にも昇る気持ちで」引き受けたのでした。
当初は木曜22時30分からの放送。後に金曜20時に移動しました。
内容は、光子の窓より更に歌の比重を強くした感じでしょうか。
週毎に様々な企画が有って、例えば「西部の歌」、「アカデミー賞特集」など。
やはり番組の色からして洋楽が主体で、ゲストも交えて、
ジャズ有り、シャンソン有り、軽いミュージカル風ありといった、
今日では絶滅品種となった、本格派のショー番組でありました。
司会は、三國一朗。

ところが、当時は基本が生放送でありますから、いろいろ趣向を凝らしても、
それが追いつかない事もあったようです。
シャンソンの「大人と子供」を歌う際に、壁に穴を二つ空けておいて、
そこに大人と子供の絵を描いておき、そこから体を出しながら歌うという演出を、
ペギー自身が考えたものの、大人から子供へ、子供から大人へという
衣装の着替えを壁の向こうで二人が取りかかるものの、
まったく追いつかないで企画倒れに終わってしまったといいます。
しかし、この番組、奇跡的に映像が残っているようですが、
そこでのタイトルの出し方など、たしかにスタッフ側も様々な工夫をしております。
テレビという新しい夢の箱から、次々何かを生み出そうという、
黎明期ならではの熱さが、この番組にも有ったと思います。

ペギーは一時、KRお得意の専属契約をしていたようですが、
丁度この昭和34年は、『南国土佐を後にして』が特大ヒット。
正に彼女にとって最高の当たり年だったと言えましょう。
構成は、ペギーとは日劇以来の、本当に初期からの深い付き合いだった、塚田茂。
この日劇上がりの演出・構成者は、日本のTVバラエティの数々の雛形を作り上げた存在。
しっかりした舞台で培った感性の人間が第一線でやっていた頃は、
テレビもまだ、腐ってはおりませんでした。
ワタクシは、もうテレビが初期の熱を取り戻す事は無いと思っておりますが、
この手の手間暇掛かる大人のための番組が各局で見られるようになるか、
それが一つの判り易い試金石になると思っております。
有り得ませんし、そう有ろうともしていないでしょうが。
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この記事へ寄せられたコメント
名誉高知県民
現在、ペギーさんにはこの称号が与えられていますが、それは勿論「南国土佐…」をヒットさせた功績によるものです。
そのきっかけは昭和33(1958)年11月、NHK高知のテレビ放送開始記念番組の中で高知の歌を全国に広めようと、「南国土佐…」をその時の出演者の一人・ペギーさんに歌ってもらおうとしたことからでした。

参照URL(10番めの記事です)
http://www.geocities.jp/xmqbk533/onbanwa/3.html
2014/02/24(月) 00:31:25 | URL | うみがめ
「南国土佐」は確か、元々は新相馬節や「愛ちゃんはお嫁に」で有名な鈴木三重子の歌で昭和31年に発表された作品なんですよね。それがうみがめさんの紹介してくださってる経緯を経てペギーさんの代表作として知られるようになった・・・というわけで。

因みにこの”NHK高知テレビ放送開始記念番組”というのは、当時「私の秘密」とワンセットで放送されていた「歌の広場」だったはずです。司会も「私の―」と同じ高橋圭三アナで、ペギーさんが以前、テレビのトーク番組でこの時の話をなさっていた際に「司会だった圭三さんがこの歌はいけるぞといってくれて・・・」といった話をなさってるのを見かけた記憶があります。

「南国土佐」がヒットした昭和34年〜36年頃というのはいわゆる”リバイバル”ブームというのがあって、戦前のヒット曲や時勢によって埋もれてしまった日本民謡など同時の流行のリズム(ドトンパ・マンボ・ラテンなど)に編曲してはやらせようという動きが活発だった時代だったんですよね。マンボ調の小林旭の「ズントコ節」やハワイアン調の佐川満男の「無情の夢」、ムード調の井上ひろしの「雨に咲く花」なんていう曲も
「南国土佐」とほぼ時同じくして流行りました。

こういうリバイバルなり故郷歌謡みたいな曲が突如1960年代への幕開けに差し掛かる時期に流行りだした原因は、やはり日本人の”心境の変化”、もうちょっと煮詰めてみれば”心のゆとりが出来始めてきた”という部分が大きいと思います。
早い話が、それまで目先の生活を守ることだけで頭が一杯であったものが、徐々に生活が豊かになるにつれて、地方や都市に対する憧憬や関心を抱けるぐらいの余裕が出てきたということがこれらの歌のヒットの心理的な背景としてあるんだろうと。
そういう意味では”時代を象徴する歌”の代名詞的な歌の一つと言えるかもしれませんねぇ、「南国土佐」は。


2014/02/25(火) 04:43:23 | URL | (ハンドル未記入)
● うみがめさん
四国を舞台にした全国的な歌って、非常に限られてそうですからね。
高知というと、どうしても機械的にあの歌を思い出すようになっているのですが。
逸話については、ご指摘のページで語られている事はほんの一部です。
読売新聞文化部が出した『この歌この歌手』という大変な労作に、非常に細かい話が載っております。
歌謡曲好きの方は、絶対に入手すべき本です。
先のページでは、「あまり乗り気でなかった」と書かれてますが、
そんなものではなく、頑なに拒んでいたようですね。
それで、歌わなくていいからと誤魔化しながら高知まで連れてきて(笑)、
当日の音合わせの段階まで来て、ようやく承知させたという事です。
それにしても、開局番組によく出演している方だ(笑)。


● 未記入さん
大元は、支那出兵の戦地で鯨部隊(高知県出身兵士の部隊)の人々が口々に広めていたもので、
民間伝承歌だったのですね。
だから正式な作詞作曲者は不明なのです。
鈴木三重子さんの数年前に、丘京子さんという人の盤が出てますね。
YouTubeに上げてくれている人がいます。

番組は、『歌の広場』ですね。
NHKの地方局が開局する度に、その局から放送し、
その地方の歌を選んで放送していたのですね。
圭三さんは、ペギーさんが気乗りせずに歌っていたのを感じ取っていて、
そういう言葉を掛けたのかもしれませんね。
しかし、その気乗りしない感じが、鯨部隊の人たちの戦地での気分と上手く合っていたというのですから、
世の中、何が幸いするか判りません(笑)。

昭和34~36年頃というと、丁度安価なレコードプレーヤーが普及し始めた時期ですね。
その頃、ごく普通の家庭でもようやく音盤を聞けるようになったわけです。
それで、まだ音盤が富裕層の物だった頃の歌が回顧され、
需要が出てきたのではないでしょうか。
精神的な余裕もそうですし、そうなる最も大きな背景には、
やはり経済的な上向きというのが大きかったでしょうね。
2014/03/02(日) 05:00:30 | URL | ごいんきょ
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