私的 昭和テレビ大全集
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轟先生 (1955)

該当番組画像募集


只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版ライト 巻之弐』発売を記念し、
昭和三十年代の番組を特集しております。
その誌面で扱った番組に限らず、今ではあまり振り返られなくなってしまった、
テレビ黄金時代の幕開けを飾る、輝ける昭和30年代を、広く振り返ろうと思います。

この時代の番組実見談を語れる人は、ネット上では非常なる少数派です。
それがため、本当にテレビが熱気を持っていた時代の番組、
出演者に関する記述・記憶が、現今の劣化番組の情報再生産も有り、
どんどん掻き消されていってしまっております。
ぜひ奮って、皆さんのご記憶をお聞かせ下さい。
皆さんが楽しんだご記憶を、歴史の片隅に、ぜひ積み重ねて戴きたいと思います。

コメント欄も含め、全ての文責は当ブログ設置者が請け負っております。
どうか深く考えず、お気楽に書いてみて下さい。
記憶違い、不確かな話、今では表現規制されるような話、
昭和のテレビに関する話であれば、ここは、ほぼなんでも受け付けております。
往時を知る方の、一人でも多くのコメントでのご参加をお待ちしております。
今回は、帯ドラマ第一号の歴史に迫る、この番組です。




昭和24年11月27日。読売新聞が、夕刊を発刊開始。
第一号の一面冒頭を飾った記事は、プロ野球が二大リーグ制へ移行するというもの。
ジャイアンツ側がセントラル、阪急・南海側が太平洋(パシフィック)リーグになるという、
第一号冒頭を飾るには非常にもってこいの大きな話題。
おっと待ちたまへ、君。
そのセントラルのジャイアンツというのは、他ならぬ読売の球団ではないのかね。
おっとそうだぜてやんでえ。なんだ。内部で何かしらの打ち合わせが有って、
旗揚げの時と夕刊発刊の日とを重なるように調整しやがったんだな。

てな具合の出来レースで揚揚と漕ぎだした読売夕刊。
その創刊号から載っていた四コマ漫画が、秋好馨の轟先生でした。
轟先生は戦前から有った漫画で、戦後の昭和22年には、古川ロッパ主演で映画化。
そんな轟先生の漫画が、読売夕刊で甦った訳です。
そして、その連載が波に乗っていた昭和30年8月5日の金曜日からという、
少し中途半端な始まり方で、読売新聞系列の日本テレビでのドラマが始まりました。
なぜ中途半端かと言うと、これ、月曜から土曜までの帯ドラマだったのです。
それが5日金曜からというのはよく判りませんが、テレビも鷹揚な時期でした。

元が新聞4コマ漫画という事も有って、家族みんなで見られるものを目指すと言いつつ、
提供は大黒ブドー酒で、時間は夜9時前後の5分間。
前後ってなんだと言うなかれ。往時は、万事鷹揚だったのです(笑)。
さすがにこれでは子供が見られないということでか、
わりとすぐに夕方6時台に移るのですが、提供は変わらず大黒ブドー酒(笑)。
この、子供も見る時間帯でなんの宣伝をしていたのでしょう。
しかも提供が替わってからも、オーシャンウヰスキー → 摂津酒造という顔触れ。
特に轟先生が呑兵衛だって描写は、漫画の方にはそんなに無いと思うのですが、
やはり当時の事とて、テレビ画面では提供会社のお酒をよく飲んでたんだろうなあ。

出演は、轟先生が映画から引き継ぎの、古川ロッパ。
エノケンといい、喜劇畑の人間は、映画で活躍した人間も、
非常なる初期からテレビと関わりを持っていたのでした。
婦人役が簡野典子。これ、何故か「筒野」ってなってるとこが多いけど、簡野ですよね。
君太郎が平凡太郎で、その姉・初子が桧有子、ミツルが武石昇で、ワタルが白田肇。
平凡太郎は、この番組が始まるにあたり、ロッパが名付けたのだと言います。
ちなみに、平凡・太郎ではなくて、たいら・凡太郎ですので(笑)。
白田は、映画サザエさんでもカツオ役をやっていたようですね。
初子役の桧有子は、当時東映所属で、戦前は岡野初美の名で日活にて活躍。

サザエさんと言えば、この轟先生と境遇が似ていて、
どちらも中断を経て大新聞の四コマ漫画として復活。
しかも、この轟先生が日本初の帯ドラマとして始まってわずか2ヶ月後、
KRテレビ(TBS)がサザエさんをテレビ化と、後の鉄腕・鉄人っぽい、
新聞社同士をも巻き込んだライバル関係だったようにも思えます。
ただ、サザエさん最初のテレビ化は、ただ新聞の四コマを順番に映していくという、
今日では考えられない、正真正銘の「テレビ漫画」だったようです。

山東昭子ら、その後にひとかどの存在となる人間も多数輩出しながら、
初期テレビドラマの不倒記録を更新し続け、
昭和33年10月15日、放送千回を迎えたのでした。
もっとも、週6回の放送ですからね。
回数そのものはすぐに増えるでしょうが、なんと言っても当時は生ですから。
15分とは言え生ドラマを毎日やっての千回は、なかなか大変だったと思います。
昭和30年代の番組は、ただでさえ見ていた人が少ないだろうという感じですが、
この番組こそは、まず記憶に残っている人の登場は、期待できますまい(苦笑)。
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コメント
この記事へ寄せられたコメント
夕刊創刊日に発表を合わせたと言うよりも
当時の事情からすると、セ・リーグ結成発表を夕刊創刊日に合わせたと言うよりも、選抜高校野球を主催する毎日新聞社との関係からセ・リーグ入りを渋っていた阪神(阪神電鉄の実力者でタイガース設立にも深く関わった野田誠三氏(当時球団社長)も、当初毎日側のリーグへの加盟やむなしとの意向だったとも)を口説き落としたのを待って、夕刊創刊日のタイミングとした様に思えますけどね。
ちなみにタイガースのセ・リーグ加入に関しては、一説には所用で上京したタイガース幹部を東京駅で拉致同然で確保して、当時炭焼き小屋があったと言われる当時の読売本社そば(後に読売本館→有楽町そごう→ビックカメラ有楽町店の一部となったらしい)で強引にセ・リーグ加入に同意させたとの話も(笑)。
只、前出の野田誠三氏も毎日新聞社への義理立てでパ・リーグ入りもやむなしというスタンスだったに過ぎなかったに過ぎず、以降は「あくまでも毎日のプロ野球参入には賛同するってだけで、毎日側のリーグに加入するとは一言も言っていない。」とのある意味「関西財界人」らしいスタンスを貫く事になります(ABC朝日放送も似たような論理で、NET系列入りを拒み続けようとした訳ですけど・・・)けど。
2014/03/08(土) 13:41:06 | URL | TXが無いテレビなんて・・・
要は、偶然創刊日になったわけではないだろうと言いたいのですが。
特に往時は、読売球団、大正力さんの意向は強く働いていたでしょうし。
阪神がパ・リーグになっていたら歴史はどうだったかというのは興味あります。
少なくとも阪神自身は、あそこまで駄目球団になってなかったんじゃないかと思うんですよね。
2014/03/16(日) 08:23:36 | URL | ごいんきょ
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