私的 昭和テレビ大全集
Google
Web全体から検索 当ブログ内 検索
総計
昨日  本日

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -



何でもやりまショー (1953)

該当番組画像募集


只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版ライト 巻之弐』発売を記念し、
昭和三十年代の番組を特集しております。
その誌面で扱った番組に限らず、今ではあまり振り返られなくなってしまった、
テレビ黄金時代の幕開けを飾る、輝ける昭和30年代を、広く振り返ろうと思います。

この時代の番組実見談を語れる人は、ネット上では非常なる少数派です。
それがため、本当にテレビが熱気を持っていた時代の番組、
出演者に関する記述・記憶が、現今の劣化番組の情報再生産も有り、
どんどん掻き消されていってしまっております。
ぜひ奮って、皆さんのご記憶をお聞かせ下さい。
皆さんが楽しんだご記憶を、歴史の片隅に、ぜひ積み重ねて戴きたいと思います。

コメント欄も含め、全ての文責は当ブログ設置者が請け負っております。
どうか深く考えず、お気楽に書いてみて下さい。
記憶違い、不確かな話、今では表現規制されるような話、
昭和のテレビに関する話であれば、ここは、ほぼなんでも受け付けております。
往時を知る方の、一人でも多くのコメントでのご参加をお待ちしております。
今回は、民放開局翌日開始で厳密には20年代だけどええやんけの、この番組です。




ここでは度々、スポーツの日テレと称してきましたが、
厳密に言えばプロ野球とプロレスの日テレと言うべきなのかもしれません。
そして、その様な呼称がもっと相応しいのは、「バラエティの日テレ」であったかも。
音楽に精通し、自ら楽器も操る制作者がゴロゴロしていた、初期日本テレビ。
軽音楽や流行歌の披露では、どうしても合間の喋りも大事で、
故にそうした経験を踏んできた人間は、概して司会進行も上手く、
それも軽い笑いを交えながらという運びはお手の物。
歌あり笑いあり演芸あり。これこそが真の「バラエティ」であり、
それこそ、初期日本テレビが最も得意としていた番種と言って良いでしょう。

もっとも、テレビの本当の黎明期には、歌をきちんと中継するにも、
技術的な制約が多かったり、笑いにしても、テレビ独自のお笑いが育っていないうちは、
あまりテレビ的とは言えない落語家がどうしても中心で、
そうした括りでの「バラエティ」番組出現には、時間が必要でした。
しかし、日本テレビはごくごく最初から、「バラエティ的」な番組で突っ走ります。
ジェスチャークイズ、シルエットクイズというクイズ系番組。
そしてゲーム系の代表となるのが、この『何でもやりまショー』でした。
もっとも、後にもバラエティと称される番組は、批判・非難との戦いの歴史ですが、
そうした事も、この元祖から逃れられなかった宿命だったのであります。

内容は、初期日本テレビの多くの番組がそうであったように、
これまたアメリカの番組を下敷きにしていて、それは『ビート・ザ・クロック』といったようです。
元番組について、まだよく調べてはいないのですが、おそらく日本版のこれは、
更に内容を簡単にして、誰にでも出来るようなものとしていたようです。
その名の通り、素人さんがなんでもやってしまおうという企画で、
番組で指定されたゲームや難題を、応募した素人が挑戦するというもの。
例えば「不完成交響楽」というゲームは、マジックで書いた五線譜の上に、
本物のオタマジャクシを並べるという、恐ろしいほどに馬鹿馬鹿しいもの(笑)。

当時は生放送で、しかも参加者が素人で、まだテレビの存在もラジオに劣るもので、
なおかつ生き物を使ったゲームも多いと、波乱を生む要素は有り過ぎるほど(苦笑)。
交通安全週間に因んだ「お使いは自動車で」というゲームは、
スタジオに小型車のルノーを用意し、十分以内にビール半ダースを買ってくるという、
これまた震えるほど恐ろしくもくだらないゲーム(苦笑)。
全員が無事帰還した後ろから、本物の白バイ警官が追跡してきて、
カメラの前で説教を垂れるという一幕が有りました。

あらかじめ警視庁に了解は取ってやっていたようですし、今とは交通事情も違いますが、
末端のお巡りさん全員に行き届いているはずもなく、可哀想に、
この真面目なお巡りさんは、事情を説明されて、悪役になってしまったと後悔したそうです。
動物を使ったものでは、ラビットダービーという、
ウサギの鼻先にニンジンの葉っぱをぶら下げて誘導するものが有りました。
とは言え、先のオタマジャクシのものは、当時の撮影技術では上手くカメラが捉えられずに失敗。
子豚もけっこう使っていたようで、産湯に使わせたような狙いのゲームでは、
当時にして、動物愛護にもとるとの苦情を受けたのでした。

昭和32年1月12日の放送から、視聴者サービスとして、「指定席」を設置。
当時は地方から大挙して都会に人材が流入していた時期で、
関西OTVと中部CBCに放送ネットされたのを機会に、
番組中に必ずカメラが映す席を設けたのでした。
これにより、遠くの知人に自分の元気な姿を見せてあげてという狙いで、
かなり時代が出ている企画でした。
そのように、素人臭が非常に強い番組であったものの、
昭和33年6月27日放送から、ゲストも参加する事になり、
後の『底抜け脱線ゲーム』へと繋がっていくのです。

素人臭と言えば、初の民放テレビ局開局期の番組だけに、
番組を司る方も、ほとんど皆素人。
初代司会者の志村一郎については不詳ですが、昭和28年9月5日、
彼が一身上の都合で降板という事になりました。
要するに、日本テレビ開局の翌日に第一回を放送し、
それだけで司会者がトンズラしてしまったという話です(笑)。
ただでさえ初期のテレビは人材難。

ところが、この番組の提供会社であるアサヒビールの営業部には、
ラジオ東京の『イングリッシュ・アワー』に出演していた三國一朗がおりました。
会社側も推した事もあり、そのまま彼が司会者として固定。
のみならず、後々まで司会者としての人生を歩む事になるのでした。
一方、アシスタントには小林久子。
こちらも、日テレ初期のクイズ番組である『シルエットクイズ』の記事で、
当ブログでは紹介済み。
そちらに書いたように、元はセ・リーグ事務局にいた女性だといいます。

制作の松本尚彦は、「キョトンとしてケラケラ笑う女性」を捜してくれと
知人に頼み、彼女がやって来たのだといいます。
彼女がどのような経緯で日本テレビのアシスタントになったかは不詳ですが、
読売球団の影響力が非常に強いセ・リーグ事務局ですから、
既存のタレントにあまり頼れなかった初期の人材難のテレビとしては、
少しでも関係者・知人から使えそうな人材を紹介されれば、
取り敢えず使ってみるというところが有ったのでしょう。
この様に、司会・アシスタント、この二人も素人だったわけです。

で、ゲームは対決方式で、勝者には金壱千円、現在なら数万円の価値でしょう、
敗者にはバャリースオレンジ半ダースだったようです。
当時、ジュースなんてものは高級品でしたから、これも魅力有ったでしょう。
バャリースオレンジと言えば、たしか井原高忠が書いていたと思うのですが、
人材難を補うためか、彼ら音楽が得意な制作者たちがバンドを組み、
この番組の音楽を担当していたようですね。
謝礼はバャリースオレンジだったと書いていたような(笑)。

この番組の関連事項としては、何よりも早慶戦を巡る有名なヤラセ事件と、
それにまつわる大宅壮一の「一億総白痴」発言に止めを刺し、
それはテレビ全体の緊張感を、一時的にですが、高めました。
大宅の発言力もさることながら、当時のテレビ経営はまだ安定的でなく、
いつでも足下すくって免許を奪い取ろうと、
虎視眈々と順番待ちをしている政界・財界人が山といたという事情も、
非常に大きかったでしょう。

今や、テレビ・電通に刃向かおうという有力発言者もおらず、
第四の権力となったマスコミ様の牙城も盤石。
インターネットに於ける集合知、集合徳が、
彼らに緊張感を与える第五の権力として「成熟」していく必要が有りますし、
そこを意識した人材がどれだけの多数を占められるか。
テレビ、メディアのみならず、日本の行く末にも大きく関わる事だと、
ワタクシは認識しているのですが。
関連記事


◆◆ 関連記事 ◆◆

Loading...

[猫カフェ]futaha



この記事を読んでくださった方へ

この記事を読んだよ~という方、できれば下のコメント欄からコメント下さい。
ご自身の想い出、この記事への感想、情報、なんでも結構です。
記事や最終コメントの日付は関係ありません。
あなたのコメントがこの記事に再びの息吹を下さるのです。
トラックバック受付アドレスは、コメント欄の下にあります。
コメント
この記事へ寄せられたコメント
OTV大阪テレビ(後のABC朝日放送テレビ)に於けるネット打ち切り後の後番組は
KRTテレビ(後のTBS)とNTVのクロスネットで開局したOTV大阪テレビは放送開始時から、こちらをネットしていましたが、読売テレビ開局に伴うネット打ち切りの後番組として放送開始されたのが、あの「部長刑事」だそうで(つまりTBS系列時代も含め、土曜夜7:30枠でTBS番組は一切放送されなかった事になる訳で)。
以前も書いた事ですけど、せっかくの「何でもやりまショー」記事ですので改めて。

未だに語られる例の早慶戦騒動については東映大部屋俳優を使っての仕込みだった事が明るみにされていますね。
その件での大宅壮一氏の批判が、旧文部省主導の「教育テレビ」構想(NHK教育やNET日本教育テレビ等の形で具現化する)にも少なからず影響を与えた…….というかテレビというメディアの旨味や利権に群がろうとする政界・財界・マスコミ等の勢力が大宅批判を利用したと観るべきでしょうな(笑)。
2014/03/30(日) 15:41:12 | URL | TXが無いテレビなんて・・・
部長刑事も、そのうちやりたいんですけどね。
関東人としては、通り一遍の事しか書けないと思いますが。

なんだか新聞屋が完全勝利してしまいましたよね。
集中排除原則とか考えなかった官僚や政治家、万死に値すると思いますが。
2014/04/04(金) 07:15:33 | URL | ごいんきょ
第1回はタイのキックボクシング風景フィルムだけ流して終ったらしい(汗)
初代司会者の志村一郎についてですが、志賀信夫氏が著した大作「テレビ番組事始」には開始当初の1クールのみ(28年11月まで)司会をやって三國一朗に交代・・・ということになってますね。

上記の「テレビ―」によりますと、そもそも三國さんは番組立ち上げの段階からアサヒビールの宣伝社員という立場で企画会議にも参加なさっていたらしく、その辺りも志村降板後の司会抜擢がスムーズに行った理由の一つだったみたいです。

尚、開始前の企画段階では海外から仕入れたフィルムを週3回、15分程度の枠で放送する番組を想定していたようですが、開局1週間前になってそのフィルムの入手ルートが急に起たれ、やむなく素人参加番組にした、ということらしいです。
その名残は第1回が「なんでもやりまショー」ではなく「ほろにがショー」と題して、タイのキックボクシング風景のフィルムの映像を夕方あたりの時間帯に15分だけ流した・・・という辺りでも伺い知ることが出来ると思います。なぜこのフィルムを放送できたのかは分かりませんが・・・まぁ、このフィルムだけは何とかルートが途絶える前にギリギリのタイミングで仕入れることが出来たっていうだけの話なんでしょうね、多分(汗)。

2014/05/30(金) 19:05:43 | URL | (ハンドル未記入)
昭和34年の新聞連載で、松本尚彦氏がこの番組に関して少し書いているのですが、
それを基にして9月5日から三國一朗司会と本記事で書いたものです。
しかし、そちらはおそらく、資料引用の誤用だった感じですね。
他の描写でけっこう微に入り細を穿つように細かい記述が有って、
ただの回想ではなく資料を基にしていると思い、
なんか辻褄合わないなと思いながらそのまま採用してしまいました。
志賀さんの本も読みながら書いていたのですが。
2014/06/01(日) 07:14:00 | URL | ごいんきょ
やはり「9月5日」のほうが正しいかも。
昭和34年の新聞連載をソースとしている・・・ということになると、当時のこの番組に関する資料の保存頻度から考えてその連載で書かれた「第2回交代説」のほうが何となく正しそうな感じですね・・・。

この番組の司会者交代時期には1クール交代説もあれば、29年の最初の放送から交代した、という資料もあったりもします。
こういう不明瞭なところをどこまで真に近づけられる部分が初期テレビ番組探求の楽しさだったりしますからね(笑)。

2014/06/02(月) 13:44:41 | URL | (ハンドル未記入)
いや、それがそこには「それまでの司会者だった志村一郎から」と書かれているのです。
ですから何回かやった事は間違い無いはずなんですね。
おそらく1クール説が正しいと思います。

9月5日というのは本番組の内容に変わった日付で、
おそらく資料引用を間違えて書いていたのだと思います。
その時に、正確な交代日付を書いていてくれていれば問題は無かったのですがね。
2014/06/03(火) 00:02:52 | URL | ごいんきょ
何でもやりまショーへ出演したことがあります。
昭和28年だったでしょうか日本テレビの創成期の頃でした。何でもやりまショーに応募して出演したことがあります。当時は子供でよく覚えていませんが、麹町にあった日本テレビ局の内部はコードだらけでそれを跨いで行くような雑然としてました。ライトが熱くて司会は三国一朗さんでした、クイズは簡単なもので、目隠しをして印まで飲み物を飲んだら勝ちという単純な物でした。
帰りにバヤリースオレンジを貰って帰ってきました。
2016/02/20(土) 01:10:01 | URL | ひなこ
なんとぉ!
テレビ誕生の年に主演された方が来て下さるとは!

そうそう。
開局当初は全員が素人同然なわけですから、カメラワークなんかも手探りだったようです。
適当にやっていたら、コードが絡まっちゃってカメラを動かせなくなったりね。
ライトの異常な熱さもよく伝えられるところです。

目隠しをして、印の所まで飲み物を飲めたら良いというのは、単純すぎて今では番組にできないかも(笑)。
飲み物は当然バャリースだったのでしょう。
帰りにまで貰えて、かなり嬉しかったでしょうね。
その当時、凄い貴重品だと思います。
2016/02/24(水) 07:05:06 | URL | ごいんきょ
↑
コメントを投稿する
HP
アドレス:
コメント:
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック
↑
レンタルCGI
管理者用
ブログパーツ