私的 昭和テレビ大全集
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歌のタイトルマッチ (1960)

該当番組画像募集


只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版ライト 巻之弐』発売を記念し、
昭和三十年代の番組を特集しております。
その誌面で扱った番組に限らず、今ではあまり振り返られなくなってしまった、
テレビ黄金時代の幕開けを飾る、輝ける昭和30年代を、広く振り返ろうと思います。

この時代の番組実見談を語れる人は、ネット上では非常なる少数派です。
それがため、本当にテレビが熱気を持っていた時代の番組、
出演者に関する記述・記憶が、現今の劣化番組の情報再生産も有り、
どんどん掻き消されていってしまっております。
ぜひ奮って、皆さんのご記憶をお聞かせ下さい。
皆さんが楽しんだご記憶を、歴史の片隅に、ぜひ積み重ねて戴きたいと思います。

コメント欄も含め、全ての文責は当ブログ設置者が請け負っております。
どうか深く考えず、お気楽に書いてみて下さい。
記憶違い、不確かな話、今では表現規制されるような話、
昭和のテレビに関する話であれば、ここは、ほぼなんでも受け付けております。
往時を知る方の、一人でも多くのコメントでのご参加をお待ちしております。
今回は、日曜夜のお馴染みだった象印最初の番組である、この番組です。




「象印、歌のタイトルマッチ!」

顔は明らかに外人なのに、日本語がペラペラ。
ワタクシが子供の頃、テレビの司会者と言えば、ロイ・ジェームスが浮かんだものです。
我が家が好んで見ていた番種では、クイズ・ゲーム系の番組でよく見ました。
赤白パネルマッチとかね。あの小気味の良い声と口調はかなり好きで、
ラジオの不二家歌謡ベストテンも大きな楽しみの一つだった。
亡くなった時には、芸能人の死で初めて淋しさを味わったものでした。

そのロイ・ジェームスは、そもそも友人であったEHエリックの代役で、
日劇ミュージック・ホールに出演。やはり最初はコメディーからでした。
昭和30年代に入るとラジオの仕事が増え、その流れで、
自然とテレビ司会もやるようになりますが、その端緒はこの番組ですかね。
最盛期には、ほとんど毎日見ていたような印象すら残ってますが。
この番組は、冒頭で言ったように、象印マホービンの提供。
但し、開始当時はまだ協和魔法瓶工業という社名でした。

内容は2部に別れてましたが、基本としては素人参加のど自慢。
タイトルマッチという題名は、勝ち抜き制であったからでしょう。
まず第一部が、歌謡・ジャズ部門。
歌謡曲は分かるけど、なんでジャズをわざわざ…
という事にピンと来た貴方は、芸能通か、古い人でしょう(笑)。
ロイ・ジェームスは、素人ジャズのど自慢の司会で名を馳せたのですね。
彼の意向だったか、または、その経歴を活かそうとしたのでしょう。

このジャズ部門で、物凄い人物が登場しました。
十人抜きで世界一周というのが売りでしたが、その十人抜きを二回やった女性がいます。
その名は、安田南。ジャズに詳しい人なら、よく知る名前かと思います。
まだ二十歳を超えたばかりだった彼女が、唯一の世界一周二度獲得者です。
彼女はその後プロになっておりますが、じゃあ十人抜きチャンピオンから
プロになった人は多いのかというと、そうでもないわけです。
また、プロ養成番組でもありませんでしたしね。

とは言え、審査員には服部良一がデンと控え、前田武彦、徳川夢声らもやりましたが、
渡辺プロの両輪の一人、女王・渡辺美佐も番組最初から審査してました。
テレビ黎明期の素人発掘番組は、少し前に書いた日本テレビの
『ホイホイミュージックスクール』しかり、ほぼ渡辺プロの息がかかっており、
ナベプロ膨張路線は止まる所が無かった、無敵の世を謳歌してました。
もっとも、先に述べたように、この番組出身のプロは、多くはありません。
5周年の時点で、約千六百人出場したうち、十人抜きはわずか26名。
うち、その時点でプロになっていたのは、山田寛一と星富佐夫の二名だったと言います。
山田寛一は、まだ地道に活動しているようで、公式サイトに勝ち抜きの想い出が有ります。
それによれば、当時まだ少年で、時の最年少チャンピオンだったようですね。
また、その頃の副賞はオーストラリア旅行だったようです。

星富佐夫の方は、稀に見る歌唱力で惜しかったとの声がネット上に残ってますが、
わりと早くに活動を辞めているようです。
安田南といい、本当に上手い人間でないとチャンピオンにはなれなかったのでしょう。
なにしろ当時の記録を読むと、審査員の辛辣な言葉が、
読んでいるワタクシの胸まで抉るような響き(苦笑)。
プロ目的でもないのに、なんでそんなに激烈な審査をしてたんだ(苦笑)。
そんな狭き門だからか、むしろ数多い落選組からの方が成功者が多く、
畠山みどり、いしだあゆみ、大下八郎なども出場したようですし、
望月浩などは、勝ち抜きの途中なのにレコード会社に引き抜かれたと言います。
畠山みどりは、「よさこい三度笠」を歌ったものの、一人も抜けなかったとか。

第二部はグッと砕けて、ものまね部門でした。
こちらの方でも、勿論プロになった人が複数いるようです。
最初の十万円(当時)獲得者は、トップライトの瓦版繁盛記に出演したりしました。
放送6年目の時点では、チャンピオンが34人になっており、
一年で8名誕生したことになります。
一部と二部、どちらも歴代チャンピオンは17名ずつだったようです。
放送六周年を記念した際、芸能人ものまね大会も実施。
これが、後番組の『スターものまね大合戦』へと繋がるのでした。

この番組が6年半、スターものまねが十年余、ヒントでピントが十五年。
NET→テレビ朝日の日曜夜7時は、三十年を優に越えて、
象印マホービンが一手に引き受け続けておりました。
開始当初はまだまだ非力だったのが、この番組が大人気を呼び、
「象印」が世間に一気に浸透。それに伴い放送開始翌年の昭和36年には、
社名も「象印マホービン」と替えて、今日に至ります。
そう言えば、不倶戴天の敵であるタイガー魔法瓶も、
当ブログ既述の『全国対抗歌合戦』という素人歌手の勝ち抜き番組をやりましたっけ。
検索最上位のウィキペディア様がうちの記事を剽窃している、あれ(笑)。
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[猫カフェ]futaha



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コメント
この記事へ寄せられたコメント
昭和30年代前半〜昭和40年代前半頃のラテ欄をみると、かなりの数で「(司会)ロイ・ジェームス」の記載が確認できますよね。
「いじわるクイズ時価1万円」とか「魅惑の宵」「スピード・ゲーム」なんていうのもありましたっけ。

民放テレビ黎明期の頃にテレビ司会業で名を馳せた方々は概して立ち居振る舞いや語り口を含め”スマートな大人”という人がとにかく多かったですよね。ロイさんに限らず、三木さんにしても三國さんにしても、貞鳳さんにしてもね。

やはりテレビ黎明期の頃はテレビに対して半信半疑な人も多かったですしね。特にテレビバラエティーなんてことになると、内容も生放送でハプニング続出、実際予定していた内容がすっとんでしまうなんてことはザラで、特に批判の的に晒される危険の高かったジャンルなわけですし。
その上でも、そのテレビへの”疑い”の部分を早く取り除くためにも、彼らが概して持ち合わせている”スマートな語り口”が必要不可欠だったんだろうな、という気がしますよね。

そういう意味で言えば、テレビ文化の普及のきっかけを築いてくれた”伝道者”ともいえる歴々なのに、その功績がいま一つ語られていないのがかなり惜しいところですよね・・・。

ここは一つ、”昭和テレビ司会者大全集”みたいなサイトかデータベースみたいなものでも私めでよければ作ってみようかしら(笑)。
そういえば、そういう”テレビ司会者の変遷”が体系的に纏められているHPとか、未だかつて見たことないですからね、ネットが一般普及して20年も経ってるというのに(苦笑)。

”司会者”もテレビ文化史の”一断面”として絶対に避けては通れない部分なはずなんですけどねぇ。どうしてこうも情報が乏しいんだろうか(苦笑)・・・。
2014/03/28(金) 04:57:30 | URL | (ハンドル未記入)
とにかく、クイズ・ゲーム番組と言えばロイ・ジェームスさんって印象が残ってるんですよね、ワタクシ。
なぜ昔の司会者に品が有ったかというと、最も大きいのは漫画世代ではないというのが一番大きいと思います。
今では、漫画とテレビで育っているわけですからね。
文字文化で育った世代とは、成熟度が大きく違うと思います。
それからやはり、教育の差も有るでしょうね。

バラエティーなんて叩かれてナンボですよ。
今、ロンブーのなんとか言うのがカナキリ声あげてるみたいですが、
なんでNHKともお笑いとも関係無いお前がそんなにムキになるんだよと(笑)。
しかも言っている内容が、テレビの事は勿論、文化全般に関する意識が低いために浅薄すぎて。
なんにも知らない奴が騒いでるなあという感じです。
ドリフやコント55号などの叩かれ方はあんなものではないわけですが、
彼らは表立っては弁解なんかしてないと思いますよ。
名前を挙げて騒がれるというのは、宣伝にもなるんです。
あとはその番組に力が有れば、かえって人気が伸びるんですね、叩かれても。
そういう鬩ぎ合いを拒否するというのは、一言で言えば幼稚なんです。
まあ、ドリフや55号と違って、お笑いとはなんの関係も無い人だから判らないのでしょうが。
それと多様性に言及しているようですが、多様性を守るために、NHKの官僚体質をもっと取り戻す必要が有るのです。
第一、視聴者側はテレビの事なんか知らなくてもいいし、その上で文句を言ってもいいんですよ。
とにかく言っている事が浅すぎます。
あれもいつかは選挙立候補するんでしょうか。


ほほお。司会者大全集、楽しみです。
いい着想ですね。
そのように、人がやっていない事をやるというのは簡単に一番になれるから楽ですよ(笑)。
ワタクシも、テレビ人全般の何かをやる気は有ったのですが、
司会者という視点は無かったな。
楽しみに待ってます(笑)。
2014/03/28(金) 07:17:52 | URL | ごいんきょ
実は準備・・・というか、「TV番組60年の歴史をデータベースで振り返る」という趣旨のWikiサイトらしきものはひそやかにやっているのですが(汗)、まだまだ記事数が少ない上、見難さがこの上ない状況でして未だごいんきょさんのお眼かねにかなうレベルにはとても到達していない・・・というのが実情でして(笑)。

しかし、元々このWikiを作ろうと考え出した契機である”司会者”の項目に関してはなるべく毎日、少しずつでも項目を増やすようには努力してます。
今のところはジャンル別・年代別・系列局別という大雑把なくくりで基本全国ネット、例外的に大阪ローカル・名古屋ローカル・・・ぐらいまでを対象にトピックスを増やすようにしてますが、いずれかはもう少し他の方にもお手伝いいただけるような形にして、全国規模の大データベースにできたら・・・という淡い野望を抱いたりもしております(笑)。

その中で、多分、Wikipediaじゃこれからも情報が出る見込みが立たないだろうと思われるマイナーな部類の昭和30年代の番組の司会者に関する情報で、調べてみた限りでちょっとその一例を挙げてみます。
もし「もしや・・・これは知ってるぞ」ということでございましたら、是非ごいんきょさんの以降の記事作成するに当たっての着想代わりとして御利用いただければ幸いです。

・「時はカネなり」(NET、昭和37年、クイズ番組):前田武彦(多分、この番組がマエタケのテレビ司会者としてのデビュー作にあたるのでは・・・・?)
・「三共ゼスチャアクイズ」(NTV、昭和28〜32年):三木鮎郎
・「ポポンタイム この人を」(NTV、昭和31〜37年):三原純→越智正典アナウンサー→秋元喜雄(河井坊茶、この番組では本名で司会をやってたみたいです)→金原二郎アナウンサー
・「ラッキー・サロン」(NTV、昭和31〜33年):玉川一郎
・「街のチャンピオン」(KRT、昭和33〜35年):大平透
・「口八丁・手八丁」(NTV、昭和33〜34年):水の江瀧子
・「バースデー・クイズ」(フジ、昭和34〜35年):桂小金治→コロムビア・トップ、ライト
・「あなたをスターに」(NET、昭和35〜37年):ジョージ・ルイカー
・「お昼です、ハイ!音楽」(フジ、昭和38〜39年):山崎唯
・「土曜ロータリー」→「土曜パートナー」(TBS、昭和40〜45年):池谷三郎アナウンサー→芥川也寸志(「土曜パートナー」時代)/鈴木治彦アナウンサー
・「東京のこだま」(NET、昭和43〜46年):八木治郎、田宮敬子
・「お昼にあいましょう」(TBS・ABC、昭和44年):(TBS版)川崎敬三・関口宏、(ABC版)伊藤友木子・玉井孝アナウンサー→森乃福郎・田辺靖雄(平日正午のワイドショー番組、この番組の後継として「ベルトクイズQ&Q」が放送開始)
・「くらぶ圭三」→「圭三・歌うスタジオ」→「圭三バラエティ・歌うスタジオ」(東京12、昭和42〜47年):高橋圭三/(「歌うスタジオ」時代のみ)篠ヒロコ→うつみみどり
・「ドタバタ大合戦」(昭和43〜44年、東京12):小野栄一
・「爆笑チャンネル」(昭和44〜45年、東京12):若水ヤエ子、Wけんじ

・・・と挙げたらキリがなさそうなのでこの辺りでとめます(笑)。

ちなみに・・・今かなり調べるのに苦労しているのは、以前ごいんきょさんが取り上げていたフジの「テレビナイトショー」の司会者変遷(汗)。
一般的にはマエタケさんの司会のイメージがかなり強い番組ですが、彼がやっていたのは5日ある放送日のうちの3日間だけで、しかも1970年の秋で途中降板してるんですよね。
で、そうなるともちろんそれ以外の司会者もいたということに当然なるわけですが、その情報が本当に涙が出てくるぐらい少ない(苦笑)。
今の時点で分かってるのは、
・月曜はマエタケ・芳村真理のヒットスタジオコンビの後、高橋圭三・磯野洋子のコンビに交代。
・水曜・金曜のマエタケさんの相手役は豊原ミツ子が勤めていた。
・木曜が東海テレビ製作に切り替わった1969年7月からは児玉清・奈美悦子コンビが司会に(ただ、児玉は1970年3月限りで降板)
・火曜の関西テレビ版はミヤコ蝶々・毛利久アナのコンビが司会を担当(しかしこれも一時期のみだったらしい)。
・最終盤の金曜は伊丹十三が司会を勤めていた。
ということぐらいです。
一説では西郷輝彦も一時期司会をやっていたという話もありますが、それも裏づけとなる確かな情報が全くなく真偽不明というのが実情です。

誰か当時の台本とか大量に所有
している方とかいないんでしょうかね・・・。そういう方が色々情報出して下さるとホントに我々としても助かるんですけどね(汗)。
2014/03/29(土) 04:28:24 | URL | (ハンドル未記入)
訂正+追加

上記の毛利さんの名前は「久」ではなく「功」さんが正しいです(完璧に勘違いしてました)。
あと、終盤のほうは土居まさるさんも(担当曜日は分からないのですが)司会をやっていたみたいです。
2014/03/29(土) 04:36:39 | URL | (ハンドル未記入)
Wikipedia形式ですか。
ワタクシもそれで考えていた企画も有るのですが、なんだか面倒臭くてなあ(笑)。
いずれにせよ楽しみです。
幾つか名前を挙げて戴いた番組も、ネタに詰まったら利用させて戴くかも(笑)。

ナイトショーですが、あまり調べ物はしたくないのですが、
だって面倒臭いので(笑)、しかしお礼もかねつつ少し調べてみました。
スレ違いになるので、後で補遺補遺の方から該当記事にTBしてみます。
2014/03/29(土) 06:32:01 | URL | ごいんきょ
アンツル
アンツルこと安藤鶴夫といえば、60年代、演芸評論家、直木賞作家としてテレビにも頻繁に登場し、その独特の塩辛声(曰く「義太夫声」)で有名だった人ですが、この人も1962年当時、「歌のタイトルマッチ」の審査員でした。

62年(昭和37年)4月1日は日曜日で、夜7時半から生放送の収録があったわけですが、この日はあいにく、歌舞伎界の世紀のイベント、十一代目市川團十郎襲名披露の初日で、彼は「助六」の幕開きの河東節連中の一人に選ばれ、幕が開く9時前には歌舞伎座に着いていなくてはならないところ、放送終了が8時ちょっと前、六本木のNETのスタジオから銀座まではきわどいところ。

河東節ですから、当然スタジオに羽織袴で現れたので、司会のロイ・ジェームスほか審査員一同は目を白黒。徳川無声老には「旦那サア、結婚式のお帰りか」と言われ、そんなこんなでエイプリル・フールの余興じゃあんめえかとからかわれながら、チャーリー石黒のバンドのエンディング・テーマに送られてタクシーでおっとり刀で歌舞伎座に駆け付けたものの、ロイ・ジェームスの「銀座までは車で10分でOK」というヨタ情報を信じたばかりにあえなく遅刻。

芝居がハネた後、楽屋のペナルティで出演者、裏方全員にそばをおごらされ、えらい出費になったという「とちり蕎麦」の一幕。生放送の時代ならではの逸話でした。
2016/03/04(金) 22:22:47 | URL | 権兵衛
いやあ、この番組の実見談で、こんな詳細な話を聞けるとは思いませんでした。
年月日までお判りとは、何かの記事で御存知なのでしょうか。
ご記憶だとしたら凄い。
2016/03/05(土) 07:13:12 | URL | ごいんきょ
Re.アンツル
管理人さま

恐縮です。別に大したことではないので、お褒め頂くようなことではありません。たまたま安藤氏ご自身が随筆「とちり蕎麦」(「雪まろげ」旺文社文庫所収、絶版)で「懺悔」していたことを思い出したものですから。

生前は毀誉褒貶の著しかった人ですが、この頃はちょっとしたマルチタレント宜しくで、テレビやラジオにかなり登場していたこともあって、放送関係を題材にした随筆も結構あり、当時を忍ぶ参考になることもあるのですが、残念ながら現在は多くが絶版になっています。

余談ですが、この先生、4、5歳のころの名子役「カンクローちゃん」(故・18世中村勘三郎=1959年、映画「アっちゃんのベビーギャング」で人気沸騰、66年、日本テレビ「ぼくの母さん」で池内淳子の息子役)を可愛がっていて、親父さんに自宅にカンクローを連れてきてもらっては、捕まえてキスの雨を降らせていたそうです。今なら文句なしに児童なんちゃらでタイーホでしょうね(笑)。
2016/03/05(土) 23:05:14 | URL | 権兵衛
へえ。ワタクシ個人では絶対に辿り着かなかった書籍でしょうから、
かなり貴重な情報でした。

勘九郎さんの話は、奇異には感じませんけどね。
親御さんの前でしょうし、子供としては鬱陶しいんですが、
そういう、やたら接触してくるおじさんはワタクシにもいました。
これが女の子相手なら、そうは接触してないと思うんですよね、流石に。
2016/03/06(日) 22:02:40 | URL | ごいんきょ
勘九郎その他
管理人さま

勘九郎については、まったく同感で、ただただ今の世が異様・異常なだけでしょう。後年彼がテレビコマーシャルで、陰の声のオバさんに「まあ、カンクローちゃん、大きくなって」と言われ、テレて頭を掻くシーンがありましたが、ああいう当時のオバさん世代ももうあらかたいなくなったな、と思っているうち当人自身がいなくなってしまいました。

「タイトルマッチ」の名付け親はやはりロイさんご自身なのでしょうか。だとすれば、彼が20代の敗戦直後、アルバイトに3回戦ボクサーをやっていたこともあるでしょうが、何よりも当時は空前のボクシング・ブームでしたから、多分にその影響もあるかも知れません。

それより、徳川夢声老が審査員になったのはいつからか、ふと気になりました。というのは、昭和36年3月末から3週間、この先生は隣のフジテレビの日曜同時間帯のドラマ「おじいちゃん」に堂々と主演しているからで、もし審査員を「さぼって」隣の局へ行っていたとしたら、こりゃアンツルどころではない、さすがは大物だけのことはあると(笑)。まあ、それだけ大らかな良き時代だったのでしょうが。
2016/03/07(月) 20:24:34 | URL | 権兵衛
ほー。ロイさんが元ボクサーだとは。
では、そんな彼の経歴から付けられた題名だったのでしょうね。

昭和36年3月当時の審査員は、安藤鶴夫、服部良一、淡谷のり子、渡辺美佐だったようです。
開始当初は安藤さんと淡谷さんの位置に、夢声さんと島崎雪子さんがいたのですね。
2016/03/09(水) 06:25:50 | URL | ごいんきょ
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