私的 昭和テレビ大全集
Google
Web全体から検索 当ブログ内 検索
総計
昨日  本日

02 | 2017/03 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -



タワー・バラエティ (1961)

該当番組画像募集


只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版ライト 巻之弐』発売を記念し、
昭和三十年代の番組を特集しております。
その誌面で扱った番組に限らず、今ではあまり振り返られなくなってしまった、
テレビ黄金時代の幕開けを飾る、輝ける昭和30年代を、広く振り返ろうと思います。

この時代の番組実見談を語れる人は、ネット上では非常なる少数派です。
それがため、本当にテレビが熱気を持っていた時代の番組、
出演者に関する記述・記憶が、現今の劣化番組の情報再生産も有り、
どんどん掻き消されていってしまっております。
ぜひ奮って、皆さんのご記憶をお聞かせ下さい。
皆さんが楽しんだご記憶を、歴史の片隅に、ぜひ積み重ねて戴きたいと思います。

コメント欄も含め、全ての文責は当ブログ設置者が請け負っております。
どうか深く考えず、お気楽に書いてみて下さい。
記憶違い、不確かな話、今では表現規制されるような話、
昭和のテレビに関する話であれば、ここは、ほぼなんでも受け付けております。
往時を知る方の、一人でも多くのコメントでのご参加をお待ちしております。
今回は、東京タワーとフジ産経の歴史にも迫る、この番組です。




アベノミクスの世に、あべのハルカス開業。
これまで日本一の建造物と言えば、どれだけ更新され続けても、
東京、せいぜいが神奈川・横浜と、関東の独擅場であったものが、
とうとう関西勢積年の鬱憤?が晴らされる事となりました。
その高さ300m。
それまでの最高は、横浜ランドマークタワー296mで、
わずか4mというのが少しショボく、ただの記録狙いのようですが、
その辺も実利的な関西人らしいかもしれません。

でもワタクシにとって最高の建物と言えば、霞が関ビルなんですよね。
その後、どれだけの建物が超してるんだっつー話ですが(笑)。
でも、それらが出来ようが、あべのハルカスが出来ようが、
スカイツリーが出来ようが、やはり、昭和に思い入れが有る人間には、
高い建物と言ったら東京タワーを置いて他には無い訳です。
半音ずれた人間が奏でる半音ずれたブログ記事、
今回は、こんな時勢ならではの東京タワーものでございます(笑)。

そもそも東京タワーという建造物は、誰が構想したものか。
これについては、鹿内信隆説と浜田成徳説が知られるところです。
鹿内信隆は、当時まだフジテレビ専務。とは言え、ほとんど最高実力者でしたが。
一方の浜田成徳は、郵政省電波監理局長。
フジテレビ十年史稿では、どちらも正しいのだろうとしておりますが。
世はフジテレビと日本教育テレビ(NET→テレビ朝日)開局前夜。
関東に一気に二局もテレビ局が誕生するにあたり、
送信電波をまとめて充実させようという構想は、非常に当を得ていました。
この発案に鹿内が大きく関わっていた事は、その後の動きにも現れています。
東京タワーこと日本電波塔の経営は、産経新聞の象徴的存在だった、
前田久吉が仕切る事となりました。

この際、前田は産経新聞株を時のフジテレビ社長・水野成夫に譲渡。
愛着のあった産経新聞から手を引き、この時、
事実上のフジ産経グループが形成されたと言えるのでしょう。
よく、フジテレビと産経新聞が別物のようだと感じられますが、
それはそもそも、出自がまったく別物だったからで、
フジテレビの母体は、あくまでもラジオ局(文化&日本)なわけです。
前田の上で日本電波塔会長として君臨したのが、日本放送会長の稲垣平太郎でした。
発祥も運営も、そのようにフジ産経グループの色が非常に濃い塔でしたので、
正力松太郎が正力タワーとか言い出したくなった意地も、解る気がします。

さて、鹿内信隆は、同時に、東京タワーにスタジオを作る事も提案。
タワーを観光施設とする事で採算をとろうとしたのも鹿内構想の一つで、
彼はその上、スタジオを作ってタワー見学者にテレビ制作を見せる事も考え、
その上、見学者が全国の知人に自分の姿を見せられるようにと、
そのスタジオでタワー見学者参加の番組を作る事を考えました。
こうした考え方は、先の『何でもやりまショー』でも有りましたが、
地方から大挙して中卒の、まだ子供とも言えるような若者たちが、
続々と東京にやって来ていたという時代性が背景に有ります。

この鹿内構想が実現した番組が、タワー・バラエティでした。
番組は、月曜から金曜の昼2時から40分。
後発のフジテレビには、まだ空白の時間帯でした。
そうした枠を、安価な視聴者参加番組で埋めるというのは、
非常に合理的な発想でもあったでしょう。
内容は、月水金が、コロムビアトップ・ライト司会の「タワー・プレゼント」。
火曜が、「素人民謡名人戦」
こちらについては、また遠くない機会に、単独の番組として扱おうと思います。
木曜がなかなか定着しなかったのですが、中では「のど自慢二刀流」が続きました。

週三回も放送され、しかも長期間に渡っていたという事で、
『タワー・バラエティ』=『タワー・プレゼント』と捉えて問題は少ないですし、
今回の記事も、タワー・プレゼントに特化して語ろうと思います。
先のフジテレビ十年史稿では、この番組でプレゼントしていた物には、
ダイコン三本だのタワシだのが有って笑いを誘ったと有ります。
おそらく、簡単なクイズの正解者に配っていたのでしょう。
でも時には、テレビなんかも賞品になったようです。
昭和37年7月4日には、泉京子がゲスト出演し、「ああなにもかも」を歌いました。
グラマー女優として名を馳せた彼女ですが、なんとこの歌は自作曲だというのです。
加山雄三だの荒木一郎だのが自作自演で持て囃された、数年前の話でした。

そして、あの草加次郎が、この番組宛に爆破予告した事も有りました。
この時、制作側は観客に一切何も知らせずに収録を敢行したらしいですが、
万万が一の事が有ったらどうするつもりだったのでしょう。
それにしても草加次郎は、結局捕まらなかったのですね。
もしかすると便乗犯だった可能性も高そうです。
トップライトの司会も概ね好評で、昭和39年3月いっぱいまで受け持ちました。
ただ、長く受け持ったトップライトの印象は打ち破り難かったようで、
後任司会はやや不評気味。それでか、後企画となる新聞クイズとか
ワンセットクイズ、旅行クイズなどで、トップライトが司会に返り咲きました。
関連記事


◆◆ 関連記事 ◆◆

Loading...

[猫カフェ]futaha



この記事を読んでくださった方へ

この記事を読んだよ~という方、できれば下のコメント欄からコメント下さい。
ご自身の想い出、この記事への感想、情報、なんでも結構です。
記事や最終コメントの日付は関係ありません。
あなたのコメントがこの記事に再びの息吹を下さるのです。
トラックバック受付アドレスは、コメント欄の下にあります。
コメント
この記事へ寄せられたコメント
鳥飼
この番組は昼間の帯バラエティって事もあってか資料がやや少なく感じますが、1965年ごろには番組発の歌も出していたようです。
分かっているものだと
伊藤アイコの「甘えさせてママ」(吉永小百合・三田明「明日は咲こう花咲こう」のB面)
川路英夫「あゝ好きなんだ」(ジャケットには「リンナイタワー」とありますが、おそらくこの番組)
があります。
2014/03/22(土) 21:22:34 | URL | (ハンドル未記入)
ある意味
 フジ平日昼の帯バラエティの原点ともいえる番組ですね。
 関東ローカルかと思いきや全国ネットだったようで、家でこの番組を見ながら東京に対する驚きやあこがれを感じていた人もいたのかな?
 (休み中に見ていた子供たちや芸能界を目指す人とか。本来のターゲットは主婦や高齢者だったと思われる)
 地方局(いわゆる民放1、2局地域の)にとっても放送時間の拡大(空き時間の穴埋め)につながり、ネットスポンサーも付いていたので編成、営業の点で助かる番組だったのではないでしょうか。
2014/03/22(土) 22:59:01 | URL | 北国の人
● 鳥飼さん
そう。資料が極端に少ない番組を次々に扱っている、
個人的には非常に意義深い企画となってます、今回の昭和30年代特集。
今のところ、まったく当時の記憶が集まらないですけどね。
甘えさせてママは持ってましたが、川路さんのは気付きませんでした。
テレビ番組の中で歌を発表すると言う形が、昭和時代には幾つも有りました。


● 北国さん
あこがれという番組作りではなかったと思いますけどね(笑)。
むしろ言ってみればお上りさん達が出ていたのでは。
主婦や高齢者が何も考えずに見るような番組だったかと思います。


ちなみにYouTubeに、貴重な番組主題歌が上がってました。
天地総子さんが歌っていたのですね。
2014/03/23(日) 08:47:23 | URL | ごいんきょ
ちょっと補足を。
色々当時の新聞のわずか2行か3行しかない狭いこの番組に関する記述の行間(汗)を観察してみる限りでは、開始当初の数ヶ月間に関しては、火曜・木曜は青空千夜・一夜が司会を受け持っていたみたいです。

ちなみに始まった当初の火曜は「素人民謡名人戦」ではなく「わたしの自慢」という・・・多分某公営放送の人気クイズ番組のパクリ?とおぼしき内容の視聴者参加クイズをやっていたらしいですが、始まって1ヶ月しか経たないうちに「素人民謡」に変更になりました(「タワー・バラエティ」としての開始日は36年1月9日、「素人民謡」が始まったのが36年2月14日から)。

「素人民謡」に火曜の番組が変わってから程なくして(多分6月頃だったはず)千夜一夜は木曜もろども司会をはずれ(ただ、ごいんきょさんが「不評だったトップライトの後任」と評されている昭和39年4月以降の「タワーバラエティ」水曜の司会として彼らは一時的に再び復帰してるみたいですが・・・)、「素人民謡」の担当はその後土曜移動後も長らく司会の座に居座る三和完児に交代。
木曜も「ダイヤルクイズ」から「お好み二人三脚」「歌謡ゲーム四つの壷」を経て、37年4月からの人見明司会の「のど自慢二刀流」が開始してようやく定着しました。

「お好み二人三脚」と「四つの壷」は全く司会者が誰だったのか分からないのですが、多分「千夜一夜・トップライトの曜日別」で始まった流れからいくと・・・三和さんが兼任という感じだったんじゃないでしょうかね。

その後、「タワープレゼント」も38年4月以降曜日別司会制となり、トップライトは水曜のみの担当に、空いた月・金はそれぞれ林家三平、世志凡太が新たに加入。
40年4月で水曜の「プレゼント」の放送は終り、トップライトを再登板させての「新聞クイズ」に代わった後も、月・金に関してはしばらく「プレゼント」が続けられ、42年の新春から三平・世志の司会はそのままに月曜は「勝抜きお買物合戦」、金曜は「チャンスクイズ」に変更、ここで完全日替わりの番組内容に変わりました。

尚、この間、最初は水曜だけの担当として復帰したトップライトは、「のど自慢―」が終了した41年1月以降は一時的に木曜の担当も兼任となり「旅行クイズ」が放送された後、10月からの「勝抜きドレミファクイズ」でWけんじに交代。
そして金曜も「お笑いペアクイズ」に代わった42年秋から世志からトリオスカイラインに司会が交代となり、この「月=三平、水=トップライト、木=Wけんじ、金=スカイライン」の布陣に、44年4月の「素人民謡」の土曜移動で新たに55号の弟分として売り出されたコント0番地が火曜司会として加入して、ここから全曜日同一の「勝抜きスピードゲーム」へと変更。

ただこの辺からちょっと低迷し始めたのか・・・そのあとは曜日別の構成に戻したと思えばまた通しの構成に戻ったり、以前一旦は終らせたはずの内容をまた度々焼きなおしたり・・・という迷走が続き、結果、47年から木久蔵司会の1週間通し番組「笑えば2時だよ」を1年放送して、この枠でのバラエティ路線は完結を迎えることになりました。

45年春以降の司会陣は極端に情報が少ないので詳細が分からないのですが、45年春〜8月まで「スピードゲーム」の後を次いで通しで放送された「奥さま寄席」は月・金:トリオ・スカイライン、火・水:三平、木:青空はるお・あきお、46年10月からは(ちなみにこの年の春に全曜日通しの番組名は「スーパーバラエティ」に代わっています)それぞれ曜日別の内容でしたが、どうやら小野ヤスシが通しで司会をやっていたみたいです。

現時点で分かる範囲ではこんな感じです。
2014/03/24(月) 11:10:23 | URL | (ハンドル未記入)
訂正

小野ヤスシの通し司会は46年10月ではなく4月〜の1年間でした。訂正します(最初の半年間は通しの「ショッピング大作戦」、10月以降は曜日別内容)。

あと、この番組を語る上で外しちゃいけないのが豊原ミツ子。
最初は三平さんの加入と同時に司会アシスタントに起用された後、幾度かの内容変更の後も三平さんとのコンビで出演し続けた後、46年4月以降は上記の小野ヤスシとのコンビで全曜日通しで出演するようになって、47年春まで司会をやってたみたいです。

彼女もその前の「ヒットパレード」、これと同時期の「テレビナイトショー」、その後の「リビング4」のレポーターとかなり長くフジの番組に貢献した方でしたよね。
2014/03/24(月) 11:24:02 | URL | (ハンドル未記入)
非常に詳しい補足ありがとうございます。
フジテレビはこの頃から、昼の時間帯を帯でお笑いの人材に任せていたんですよね。
言ってみればお家芸というか。
そう言えば、時節柄『笑っていいとも!』やりたいのですが、
ムチャクチャ長くなりそうで時間が取れない感じだなあ(苦笑)。

豊原ミツ子さんは、フジのアナウンサーでしたね。
ヒットパレードも書きました。
「勝ち抜きスピードクイズ」なんてのも有ったようです。
2014/03/25(火) 22:51:33 | URL | ごいんきょ
考えて見ますと、あの局の正午枠帯の元祖だった「お昼のゴールデンショー」も前期のほう司会こそ
純然たるお笑い出身者ではなかったものの、その脇はもう松竹演芸場やフランス座、末広亭のように関東笑芸の殿堂で相当数の舞台をこなしてきた”一流芸人”ばかりでしたからね。
55号もそうですが、後期の司会だったケーシー高峰さんや志ん朝さん、「お笑いタッグマッチ」からの流れで金曜に長く出ていた柳昇さん、そのほか高松しげおさんとか。

その後継も、
・ハイヌーンショー→コロムビアトップ・ライト、月の家円鏡
・爆笑ゴールデンショー→ラtキー7
・ドキドキ生放送→三平
・・・と”関東笑芸”を重視した面々をメインキャストに置いていましたし。

あの枠で上方笑芸が幅を利かすようになったのは、やっぱりMANZAIブームの影響がかなり強いと思いますね。もちろんそれ以前に蝶々先生や米朝さん、いとこいさん、もうちょっと下の世代になるとやすきよ、三枝さんのように既に全国区になっていた芸人さんはいましたけど、やはり全国進出できる機会自体がかなり限られていたような感がありますしね。
2014/03/26(水) 13:54:45 | URL | (ハンドル未記入)
そうですね。
交通事情も大きいとは思いますが、やはりTHE MANZAI以降ですね
関西のお笑い、と言うよりも言ってみれば吉本ですが、
関東で幅を利かせ始めるのは。
2014/03/27(木) 07:09:43 | URL | ごいんきょ
タワースタジオ
こんな言い方をすると、東京タワーの麓にあったテレビ東京の旧局舎を連想するのですが、昔はタワーの中にも公開スタジオがありました。
勿論、このタワーバラエティの放送開始に合わせて作られたもので、正式にはタワープラザと言って、確か建物の4階部分に入居していました。
閉場したのは確か1973年のことでした。聞いた話では、建物の構造上天井を高く出来ず、その為カラー放送に対応出来ないと判断されたというのがその理由とのことです。
2014/03/29(土) 19:04:50 | URL | うみがめ
カラー放送に対応できない理由がよくわからないですけどね。
照明の問題かな。
鹿内さんは、フジテレビ内のスタジオは最先端の技術を揃えさせていたようですが、
タワースタジオの方の設計には関わらなかったんでしょうか。
2014/03/30(日) 07:15:33 | URL | ごいんきょ
参加賞
母親が出たことがあります。
確か番号を選んでカーテンで隠れているその番号の品物を持って帰るか、クイズをやるかの選択でした。
クイズをやらずに品物を持って帰りましたがステレオでした。
しばらく家にありましたがそのうちに無くなりました、うっぱらってしまったようでした。
確か水曜日でしたが司会はトップ・ライト、アシスタントは松任谷国子でした。
参加賞は無し、その週までサスプロで翌週からリンナイがスポンサーになったということでした。
2017/02/27(月) 21:19:12 | URL | さざんくろす
へえ。随分と込み入った事までご記憶のお母さんで(笑)。
お陰で貴重な情報となってますけどね。
それにしてもステレオは凄い。
2017/03/05(日) 21:47:46 | URL | ごいんきょ
↑
コメントを投稿する
HP
アドレス:
コメント:
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック
↑
レンタルCGI
管理者用
ブログパーツ