私的 昭和テレビ大全集
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婦人ニュース (1957)

該当番組画像募集


只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版ライト 巻之弐』発売を記念し、
昭和三十年代の番組を特集しております。
その誌面で扱った番組に限らず、今ではあまり振り返られなくなってしまった、
テレビ黄金時代の幕開けを飾る、輝ける昭和30年代を、広く振り返ろうと思います。

この時代の番組実見談を語れる人は、ネット上では非常なる少数派です。
それがため、本当にテレビが熱気を持っていた時代の番組、
出演者に関する記述・記憶が、現今の劣化番組の情報再生産も有り、
どんどん掻き消されていってしまっております。
ぜひ奮って、皆さんのご記憶をお聞かせ下さい。
皆さんが楽しんだご記憶を、歴史の片隅に、ぜひ積み重ねて戴きたいと思います。

コメント欄も含め、全ての文責は当ブログ設置者が請け負っております。
どうか深く考えず、お気楽に書いてみて下さい。
記憶違い、不確かな話、今では表現規制されるような話、
昭和のテレビに関する話であれば、ここは、ほぼなんでも受け付けております。
往時を知る方の、一人でも多くのコメントでのご参加をお待ちしております。
今回は、ニュースショーの原点を振り返る、この番組です。





最初は昭和32年の4月から、ポーラ化粧品提供で、日本テレビで始まったんですね。
その時分のニュース番組というものは、劇場でのニュースフィルムに近い感じで、
フィルム映像に局アナの単調な原稿読みを被せたもの。
そこに風穴を開けたのがこの婦人ニュースで、フィルムだけでなく写真、
更にはスタジオでの生のやり取りを取り入れた、
その後で言うニュース・ショーに近い番組作りが試行されました。
しかも、内容はニュースに限らず、料理や流行、対談なども含んだ、
正に後のワイドショーの小型版、雛形のような番組が試行されました。
日本テレビでは、そのような形式の番組を模索していたものを、
まずは婦人層を対象にやってみる形を執ったのでした。

時間は平日毎日の、昼12時45分から13時までの15分。
最初の担当アナウンサーは、文化放送から引き抜いた原和男でした。
また、対談の聞き手としては、女性の石井百合子アナウンサーが担当。
第一回は4月1日、エイプリル・フールという事で、
それを題材とした軽いコントから始まり、日本棋院の婦人デーの模様、
春の武蔵野風景、海外ニュース、「楢山節考」で衝撃の文壇登場した深沢七郎と
丸尾長顕、そして石井アナによる座談会フィルムという内容でした。
この座談会の中で深沢は、先年亡くなった母親が肝臓癌だったので、
自分も同じ病気になって母の苦しみを味わいたいと告白。
更には、ギターで楢山節を披露したのでした。

昭和34年3月3日放送「女子大は花嫁学校か」では、
花嫁学校論をぶつ大宅壮一と、反対論の田中澄江による侃々諤々の討論が実現。
如何せん15分の時間では短すぎという意見が出ました。
この女子大花嫁学校論は、今ネットで検索してみたら、
早大教授の暉峻康隆(てるおか・やすたか)による
昭和36年の発言が発端とされているようですが、事実はこのように、
既に二年も前から世間一般で囁かれていた事であり、
これまた大宅壮一が絡んだ惹句だった可能性も有ります。

昭和35年6月9日には、放送千回を達成。
千回を記念して、時の衆参両院婦人議員が、当時総員24名中20名出演。
「婦人にひとこと」をそれぞれが贈ったのですが、放送時間が短いため、
一人あたまの持ち時間が30秒と、本当に「ひとこと」だったようです。
そして帰りには、当時提供の山一証券から金庫のお土産を貰ったといいます。
まさか中身は入ってなかったでしょうが(笑)。
千回記念は一週間通して企画され、二日目からは、「女子学生」
「農家の嫁」「上流婦人」「一家を支えて」「おばあさん」等々、
階層、年齢、社会意識毎に分類して、問題点を掘り下げたようです。

「一家を支えて」には、五児を残して夫に先立たれた未亡人が、
その生活苦を訴えた内容で、見ていたご婦人方の憐憫の情を呼びました。
昭和35年10月19日放送「テロを憎む」では、あの浅沼社会党委員長未亡人が、
自宅前にて喪服姿で事件について語るという、非常に生々しい内容。
「私たちは人に刺し殺されるような生活はしていなかった」と、
女性らしい言葉でやりきれなさを述べました。
更に、現場にいた池田首相が「浅沼君しっかりしろ」と駆け寄ってくれなかったと、
被害者遺族ならではの、少し我が儘な意見も。
こういう言葉が出てしまう訳ですから、興奮さめぬ当事者に言葉を求めるのは非道です。

以上は全て日本テレビでの婦人ニュースの出来事でしたが、
日本テレビで放送が始まった翌年から、TBSでも同じ題名で同じ様な内容、
しかも時間帯もまったく同じで、なんとなんとの提供会社まで同じポーラ化粧品という、
ポーラ婦人ニュースが始まったのであります。
これなんぞは現在ではまず考えられない事態ですが、往時は、時間帯はともかく、
同じ提供会社が局を跨いで同じ番組を持つという例は皆無でもありませんでした。
おそらく、社会実験もかねて、様々な形を試行していたと思われます。
ただ、日テレ側には不満も有ったろうと推察するのですが。
そしてTBSの婦人ニュースは、ポーラTV小説に衣替えするまで続くのでした。
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コメント
この記事へ寄せられたコメント
TBS成田事件絡みで
TBS成田事件絡みでTBSのポーラ婦人ニュース(番組制作はABC朝日放送)の存在は知っておりました(又、成田事件でポーラ婦人ニュースが打ち切られ、TBS製作のポーラテレビ小説に変わったという事情も)けど、その1年前に始まった日テレの婦人ニュースの当初のスポンサーもポーラだったんですねえ。
TBSのポーラ婦人ニュースがスポンサー営業がTBS担当ながら、実製作をOTV大阪テレビ(後のABCテレビ)に回した事情の一つに、日テレに対する配慮(というか言い訳作り)もあったであろう事も推測されますね(日テレともネット関係にあったOTVに対して、TBS(当時はKRTですが)側に繋ぎ止める懐柔策の側面もあったのでしょうけど。)。

当時は1県1局の時代でオープンネットながら日テレ色が強い局と、TBS色が強い局と枝分かれが始まっていましたから、ポーラ側の意図とすれば両局で同系統の番組のスポンサーを務める事で、全国展開を確実なものにしようとの思惑だった(キューピー3分クッキングと似た形)のでは無いかと。
無論、日テレ・TBSの両製作局側からすれば、甚だ面白くなかったでしょうし、テレビの時代の到来がハッキリしてきた1960年にポーラは日テレの方のスポンサーから降りる事となった様ですが。
2014/04/20(日) 11:59:14 | URL | TXの無いテレビなんて・・・
ああそうですね。
当時はネット局数も少ないですし、全部の局で放送してやれって所も有ったかもしれないな(笑)。
2014/04/20(日) 23:26:34 | URL | ごいんきょ
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