私的 昭和テレビ大全集
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青春カレンダー (1954)

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只今、個人誌『昭和テレビ大全集レコード版ライト 巻之弐』発売を記念し、
昭和三十年代の番組を特集しております。
その誌面で扱った番組に限らず、今ではあまり振り返られなくなってしまった、
テレビ黄金時代の幕開けを飾る、輝ける昭和30年代を、広く振り返ろうと思います。

この時代の番組実見談を語れる人は、ネット上では非常なる少数派です。
それがため、本当にテレビが熱気を持っていた時代の番組、
出演者に関する記述・記憶が、現今の劣化番組の情報再生産も有り、
どんどん掻き消されていってしまっております。
ぜひ奮って、皆さんのご記憶をお聞かせ下さい。
皆さんが楽しんだご記憶を、歴史の片隅に、ぜひ積み重ねて戴きたいと思います。

コメント欄も含め、全ての文責は当ブログ設置者が請け負っております。
どうか深く考えず、お気楽に書いてみて下さい。
記憶違い、不確かな話、今では表現規制されるような話、
昭和のテレビに関する話であれば、ここは、ほぼなんでも受け付けております。
往時を知る方の、一人でも多くのコメントでのご参加をお待ちしております。
今回は、テレビが育てた演芸人第一号そしてトリオもの元祖を振り返る、この番組です。





劇場ではなく、テレビから育ったお笑いタレントも、テレビ黎明期には渇望されました。
その第一号と言えるのが、お笑い三人組で名を馳せた、
一竜斎貞鳳、三遊亭小金馬、江戸家猫八の三人でしょう。
元々は、昭和29年の日テレ土曜お昼にやっていた、時の三遊亭歌奴、後の円歌司会の、
『お昼の演芸』という番組で、歌奴が都合悪い時に友人の小金馬が代役を務めた。
これがなかなか好評だったため、それから二人で組んで始めた。
そのうち二人とも寄席の都合で穴を空けそうになったため、
仲間の貞鳳と猫八を呼んで、4人で二人二組が交代して受け持つようになったと。

そうこうするうちに昭和29年8月28日、日本テレビ開局一周年という事で、
『お昼の演芸』でも記念番組をやる事になったものの、予定してた出演者が出られなくなった。
そこでプロデューサーの村越潤三は、それまで二人ずつ使っていたのを、
四人一緒に出そうと考えついたのでした。題名は、「青春四人男 - 笑いの缶詰」。
まだ四人とも、芸の上で一本立ちしていない、青春時代とも言える頃合いでした。
内容は四人が適当に決めて、当時社会的な大人気だったプロレスのパロディに。
小金馬がセコイナー、歌奴がクドイナーと称し、猫八がレフェリーのオッキシナ。
貞鳳がアナウンサーを受け持って、ハチャメチャなプロレスの真似事をしたのです。

首を絞めるかと思えば按摩、レフェリーがカウントを取るかと思えば寝てしまう。
考え考えなんとかやり終えると、村越Pが、「おい、大変だぞ。社長が…」
と言いながら飛び込んできたというのですね。
四人は、すわ、正力松太郎御大からふざけすぎのお叱りを受けると、
恐縮しながら駆けつけると、「面白い」と言われたのでした(笑)。
開局パーティーのお客さん達は、それまで舞踊とか面白みの無い番組ばかりだったのが、
四人の暴れぶりが放送されるや、みな食い入るように見始めたというのですね。

正力御大の大号令で、毎週出て貰えとなった四人でしたが、
歌奴は三ヶ月の地方周りが有ったために都合がつかず、
結局、残りの三人で始まった番組が、この『青春カレンダー』というわけです。
最も若い小金馬は、まだ真打ち昇進前で生活も苦しかったので、特に助かったようです。
それどころかその頃は、日本テレビすらも経営が四苦八苦。
まだ受像器台数が全国で五万台ほどと少ないため、広告効果を売り物には出来ず、
ましてやお昼のこの番組は、当初サスプロと呼ばれる自主制作でした。

二十分の制作費が三万円。三人の出演料が六千円ほど。
脚本料も惜しいので、放送一週間前に三人が集まって知恵を出し合い、
それを村越Pが一枚の紙に骨組みだけ書き付ける。これが今で言う脚本。
三人の合い言葉は、「早くスポンサーを付けよう」でした。
人気を呼ぶために、人気ファッションモデルのヘレン・ヒギンスを起用。
ちなみに、この彼女の色気に目を付けた井原高忠が、『ニッケ・ジャズ・パレード』で
網タイツのカバーガールとして起用し、テレビお色気第一号となるのでした。

その甲斐あってか、少しずつ提供会社がつき始め、安い脚本家を使おうという事になり、
三木トリローの所に出入りしていた早稲田の学生、永六輔が抜擢されたのでした。
永六輔の脚本を得て人気も弥増した名作パロディー路線でしたが、
他にも毎回、三人の口利きで一人の女性ゲストが参加し、
若水ヤエ子、桜京美、庭野千草、柏正子といった面々が活躍して盛り上げました。
こうして、この三人組の人気はかなりのものとなっていったのです。
そんな或る日、三人は、NHK近くの蕎麦屋の座敷に呼ばれたといいます。

そこにいたのは、NHKの坂本朝一、久米昭二、ラジオ作家の名和青朗、作曲家の土橋啓二。
まだ新進の名和青朗は、坂本にこう言われたといいます。
「とにかく面白いバラエティーを作って欲しい。この三人のキャラクターを活かした、
 いわばお笑い三人組というようなものを。もし失敗すればみんな左遷されるし、
 君もNHKはお払い箱になるのを覚悟で」
恐怖もあり(笑)、しかし若い意気盛んな身にはやる気も漲り、
このような交渉が三人組にも向けられ、やはり若い三人組は、その気になったのでした。
筋を通すため日テレ村越Pに挨拶に来たのを、村越はむしろ激励したと言います。
日本テレビは三人と専属契約もしておらず、どうしようも無いというのは有りましたが。

このようにしてNHKラジオで始まったのが、『お笑い三人組』でした。
一方の『青春カレンダー』も変わらぬ人気だったものの、
提供会社の資金繰りが急に悪化し、昭和31年9月で休止となったのでした。
これによりNHKも三人も気兼ねする相手が無くなり、
テレビでも『お笑い三人組』の中継を始めたのでした。
そして、この三人組の後釜として村越が見つけたのが、
由利徹、南利明、八波むと志の脱線トリオというわけですが、
彼らの話はまた近いうちに、『お昼の演芸』の稿にて語りましょう。

生放送ならではのあわやの事故も、この番組は経験しております。
猫八の武士、貞鳳の女幽霊、小金馬の人魂係という配役で、
やたら威張る武士を二人の町人がおどかそうという設定。
ところが小金馬が人魂用の綿に含ませたアルコールが多すぎて、
火が床に垂れたアルコールにまで引火、しかも慌てて瓶を引っ繰り返してしまい、
あたり一面に火が燃え移ってしまったというのですね。あわや大火事。
小金馬は慌てて両手でバタバタ床を叩き、幽霊は井戸から逃げ出す(笑)。
アドリブでなんとか誤魔化して、ではまた来週と済ませたようですが、
それを放送で見ていた作家の玉川一郎が、こう評したのだと言います。
「あれは大変な迫力で、とても面白かった」。(笑)
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コメント
この記事へ寄せられたコメント
この番組、よく回顧系の書籍では「お笑い三人組の初顔合わせ番組」として紹介されることが多いんですが、最初は圓歌さんが司会をやってたんですね。それは知らなかった・・・・。

多分、「お昼の演芸」を取り扱われる際に触れられるかもしれませんが、昭和34年の春から(だったと思う)は脱線トリオと並ぶ二枚看板としてトップ・ライトが前半コーナー(「トップ・ライトの目」)の司会役として新たにレギュラー入りしているらしいです。ただ、脱線トリオの「たそがれシリーズ」に比べると(多分、似たような番組や企画を他局でもトップ・ライトが当時多くやっていたせいもあるのでしょうが)あんまりコーナーの人気は上がらなかったみたいですが・・・。

因みに放送曜日は途中で火曜、最後は水曜に移動しているみたいですね。
2014/04/17(木) 07:57:28 | URL | (ハンドル未記入)
いや、少しわかりづらいかもしれませんが、
歌奴さん司会は『お昼の演芸』で、『青春カレンダー』は、
歌奴さんは日程調整がつかなかったのか、参加しなかったようです。
2014/04/19(土) 20:31:43 | URL | ごいんきょ
「お昼の演芸」→「青春カレンダー」→枠移動→「お昼の演芸・脱線コント」
再度色々自分のほうでも当時のテレビ欄や「昭和30年代のTVガイド」に掲載されている番組表をざっと調べてみたのですが、「お昼の演芸」としての放送が終るのと引き換えでこの番組が始まったみたいですね。

「昭和30年代のTVガイド」に掲載されている昭和30年4月第2週の番組表をざっと見てみますと、当時の日本テレビの正午枠で(コント・コメディを含む)演芸番組とおぼしき番組がやっていたのは木曜にやっていたこの番組だけなんですよね(最初に「お昼ー」が放送されていた土曜昼枠には、この週に関しては「春に歌えば」(多分この表記自体は番組名ではなくその番組のその日のサブタイトルだと思われますが・・・)という表記があるので、この時点で既に歌番組かそれに順ずる内容の番組に切り替わっていたと推測されます)。
なので、恐らく、「お昼の演芸」の後継番組扱いとしてこの番組へと今でいう”リニューアル”が計られた・・・と見るのが自然なのだろう・・と思います。

その後、「青春―」は昭和31年4月より月曜夜7時台に移動し、それと入れ替わるような形でから脱線トリオの「脱線コント」が今度は水曜の昼枠でスタートしているようです。この脱線トリオによるコントは当初から「お昼の演芸」の後半15分のコーナー扱いとして放送されていたようですから、多分「お昼の演芸」という番組名もこの時に正式復活した・・・ということなのでしょう。

ただ、あくまでもこれはいくつかの書籍やWEB上での情報を勘案しての個人的な”推測”に過ぎません。何せ参考にしている資料それぞれでこの番組や「お昼の演芸」に限らずこの時代の番組に関する放送データや記述が微妙に齟齬があったりするもんですからねぇ・・・。この辺りをどう精査していくかが、非常に悩ましいところだったりします・・・(苦笑)。
2014/04/20(日) 04:17:13 | URL | (ハンドル未記入)
「お昼の演芸」というのは淡泊な番組名ですし、また、初期にはいろいろな意識も希薄だったのでしょう、
TBSでも、フジテレビでも、同じ番組名のものをやっていたんですよね(笑)。
そのくらいですから、復活という意識よりも、単にお昼にやる演芸番組というだけのつもりだったかもしれません。
その辺はまた、お昼の演芸をやる時にでも触れたいと思います。
2014/04/20(日) 09:49:12 | URL | ごいんきょ
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